絶不調

夕べはエアコンもつけてきちんと睡眠環境整えて寝た。
最近の中ではよく眠れたので良かったです。
曇ってるし、暑すぎず快適。
しかし、気持ちが晴れない、相変わらず。
曇ってる天気と同じ。
傷ついたきっかけの相手に怒りを感じる。
死んでほしい。
精神科医の水島広子先生は、「怒っている人は困っている人なのです」と。
確かに。
怒りの感情、嫌な記憶が抜けなくて、不快で不快で不快な時間が辛くて本当に困る。
嫌な気持ちから抜けられず、気持ちを留めたままにしている、環境を変えて新しいことを重ねていこうと動き出したのに、
なかなか簡単には楽にならないもので。
苦しいし思考パターンを変える方法が分からないので本を読んで「なるほど」と参考にしてるけど、
知れば知るほど迷いも生まれるし、辛かったことにフォーカスされていく。
あれは仕方なかった、相手はコントロールできない、そんな中、私は傷ついた、修復には時間がかかる、
傷ついた自分も不完全な自分も不完全な相手も理解できる。
でも、傷ついた苦しさがとにかく苦しい。
今は傷ついているんだから、仕方ない。吹っ切れない自分がいる、と受け入れているつもりだけど、
どこかで自分にダメだししているのだろうか。
傷ついている自分、傷ついた出来事、それはやはり自分に原因があると思うのだろうか。
私は悪くない、あの時直後の自分はむしろその衝撃によく耐えたと思う。
傷つく側も傷つける側も、不完全な人間で、完璧な人間などいないのだから、
それを許せないとどんどん生きづらくなる。
傷ついた自分は労わってあげたい。あれで傷つかないのは無理。
言葉を発した相手も不完全な人間。
わかっている、理屈では。
でも、苦しい。
あの人は、何年も会わずしてもまだ私を苦しめるのか。
形を変えてまで。
悪魔だ。
どうなってほしい?
もう死んで欲しい。
今日は心からそう思うのです。
苦しみが憎しみを生み、自分も苦しめている。
これが今の自分。それはそれでいいんだ。
死んでほしいんだよね、あんな奴、自分の中から消えてほしいんだよね。
もう関わらなくてもいいはず。そんな場面になっても、関わらないようにすることはできる。
自分が嫌なら、いいんだよ。脅威の対象なんだからもう会わなくていい。関わらなくていい。死んでほしいと思っていい。
なのに、
相手の事を知っている、という事実。
過去の現実。
積み重なった、嫌な思い出。
親しかった時のことまですべて打ち消す嫌な思い出の数々。
忘れたい。
記憶って、切り取れたらいいのにと
本気で思う。
悔しい。
ちゃんと自分を好きになって幸せになれるように小さな自分の幸せを積み重ねていきたいのに
あいつらが邪魔をする。
許せないからいけないの?
忘れられないからいけないの?
自分も相手も不完全だと、心で感じられないからいけないの?
許せない、死んでほしいと思う自分は幸せになんかなれないよね。
これが自分へのダメだしだ。
許せなくていい。
忘れられなくていい。
自分も相手も不完全だと、心から思えなくてもいい。
死んでほしいと思ってもいい。
自分が思う事は全部認めて受け入れる。言葉をかえて言い聞かせなくていい。
できないことはしなくていい。
自分を全部受け入れて、認めてあげて、許したら、幸せになれる。
焦らないで。
ちょっとでいいから
ちょっとの時間でもいいから
楽な時間をもてるようにしようね。
たくさん買った本も、
読みたくないときは読まないし、これは自分に該当しないと思ってもいいし、知りたいことはこういう事じゃないと思ってもいい。
苦しいなあ。
できるようになったことはある。
楽しいと思えることもある。
楽しみもある。
苦しいことはあるけど、とにかく今を生きよう。
齋藤一人さんの「過去は変えられる」の言葉の意味を理解したいなと思います。
ざわつく

胸がざわつく。
なんだか調子が悪い。
良い日悪い日あることはわかってるけど、不安に支配されるとこの先大丈夫かという思考がどうしても出てきてしまう。
しかも、ひとつのことに苛まれて頭から離れず、それがどんどんスイッチしていくわ、前のものは解消されないわ。
2日前、久しぶりに体重計にのったら増えてた。
しかもそこそこ増えてた。
調子悪くして落ちたことを思えば、この休みで体重が増えるのは良いことだと思うんだけど、
一度減った体重って、やっぱり増えるといい気がしない。
あ、健康っぽーい!って思えたら苦労してない。
もー、ネガティブだなあ。
それだけならまだしも、数字で確認すると途端に全身が太って見える。
よっぽど私の見えるものは歪んでいるようだ。
腕が足が、気になって仕方なく、睡眠にまで影響が出る始末。
2年前は今よりもっとあった体重。計っても計ってもちっとも変わらないのに、こんなに気にしなかった。
お金の次は体重かよ。
あー、もう、不安癖がかなりのもんになってる。
目に見えるもの、心を捕らえるものが自分を苦しめている。
睡眠がイマイチのせいか、余計に思考が悪いような気もする。
どうした、自分
大丈夫か、自分
今以上に増えなきゃいいし、休んでからかなり運動量減ってたし、減った分が戻っただけじゃない。
だいぶ落ちた時はご飯の味も悪いし、毎日が地獄のようだったし、喉が潰れるような泣き方して神経もエネルギーも使い果たしてた。
それに比べたら、きちんと休んで嫌な場所から逃げてきて、自分を大事にできているんだよ。
うーん・・。
何かしているとき、「今」に集中できるようになって、過去や未来、とくに明日の心配をして保険をかけて活動に制限したりすることがなくなってきて、それはいいことだなあと思ってるんだけど・・。
自分スキスキキャンペーンが少しずつ効果があるのか、罪悪感やこんな自分が悪い、ともあまり思わなくなってきたし。
なんか、ひとつの事にとらわれて不安やざわつきに支配されて苦しい。
最近ひどいような気もする。
毎日が楽ではない。
なんか、考えた方がいいのかな・・、と、迷う。
本を読む

ウツウツの時は文章を読むのもそこに集中するのもしんどくて、本なんて読めませんでした。
なんとなく調子戻ってるんだろうな、心や脳に余裕ができたんだな、と明確に思えるのは本が読めること。
本を読むのに集中がしんどいというのもそうだけど、集中というより気になることに頭が支配されて結局そのことばかり考えちゃうから、本なんかとても読めたもんじゃない。
でも、お休みに入って「もうあの人たちと話さなくていいんだ!」という心の余裕だけで本が読めるようになりました。
それから、ちょこちょこと本を読んでいます。
もちろん、ウツに関するものばかりですけれども。
でも、精神科医にしても心理カウンセラーにしても、それぞれ持論があるから、
色んな人の本を読んで自分にあったもの、自分にしっくりきたものを取り入れるってのはいいと思うし、
色んな人の考えを知るのは悪いことじゃない。
時間あるんだし、同じお金出してご飯食べるならここは1冊買うか、
これは自分のためのものだ。
1冊本を買うのに、ここまで言い聞かせてやっとこ買ってる。
それでも、たくさんのウツ経験者の方がいろんな本を読んでいます。
太陽の光を浴びることの必要さを感じるように、本を読んでる。
今、自分が読んでいるのは、不安や嫌なことを忘れられないこと。
気分変調性障害のこと。
そして新しく注文したのも、不安や嫌な感情との付き合い方について。
余裕ができた生活をできるとはいえ、お金のことであんなにも不安に苛まれて苦しい時間を過ごしてしまうし、
やっとこ落ち着いてはきたけれども、お休み入ってしばらくは怒りや悲しみの感情でくたくたになっちゃったし。
これは自分が悪かったり、自分に原因があるのではなく、心の癖からきているのもののようなんです。
長いこと、そういう考え方を知らず知らずにしてしまっていたから習慣になってしまっている。
だから、治すことができる。
それはとても希望のもてるものです。
だって、これからは楽に生きていきたいもの。
自分を愛せるようになりたいし、自分で自分の首をしめることはしたくないし、首絞めるんじゃなくて労わってやりたい。
でも、そのコツはもうわかんない。
ここまで大人になってしまって、20年?30年?、自分を責めること、自分に原因があるんだ、ってことで事を終えてきたから。
そんな自分、唯一はっきりと好きだと思えることがあります。
真面目な自分。
どんなことにも真面目に取り組む自分。
その真面目さが裏目になって苦しんだことは数知れず、だけど、
真面目なゆえに自分を高めてこれたし、今もそれで苦しい状況から脱しようとしている。
だから、たくさん本読もう。
焦り癖のある私、あと仕事をするうえで「早く終わらせることこそ美意識」と思っていた私はそのせいかやたら次へ次へ読もうと目がちらついて、結果全然内容が頭に入ってないということも多いです。
ウツウツのせいで集中できないってのもあったと思うんだけど。
だから、本を読むときも「焦らずにゆっくり、慌てる必要はないよ。時間はいっぱいあるよ。」と声をかけるように心で思いながら読んでいます。
そうすると、ゆったりした気持ちで読めて、その時間が心地よく思えてくる。
「今」に焦点をあてて時間を過ごす、ということにも役立っているような気がします。
手当たり次第買ったり借りたりしてしまったので、読みかけの本もありますが、明日また2冊届く予定。
ひとつひとつ、読んでいくぞー。
ゆくゆくは、精神療法に限らずにいろんなジャンルの本を読んでいきたいな。
本をゆっくり読んでる時間、好きだもんね。
おかね ナイナイ思考

前回のブログを書いてから、だいぶアクティブに動くようになってきました。
動くことで気持ちが晴れることも体感したし、楽しいと思えるし。
そうしたら、お風呂に入ったり料理することもささっとできるようになってきた。
ささっと、というか、ささっと動き出すことができる。とにかく億劫じゃない。
これは本当に楽です。
昨日も買い物に行くのに化粧をしてたけど、でかけるから化粧しようというのがすごく自然で、
あー、なんか違うなー、と思って嬉しかった。
7/14は渋谷にトークライブに行ってきました。
東京に行くのは実に半年以上ぶり。一度5月に行こうとしたけど、当日の朝になって出勤前のような気分の悪さが襲ってきて、とてもバスにも東京の電車にも乗れないと、ドタキャンしたんです。
それがあったから、怖くて行く気になれなかったけど。
実際になったらバスも電車も平気、渋谷も新宿もズンズン歩いて意気揚々としている。
意気揚々としている自分がちょっと誇らしげで、帰りにバスから見る山の景色も心なしかすごいきれいに見える。
やったねー。
この連休が明け、おいおいヨガやリズムストレッチの講座を受けたいと思ってた施設へ様子見に行ってみたり。
実際とても居心地良くて、初回体験で骨盤歪みをみてもらったり併設カフェでご飯食べたり、服やマグカップ買ったり。
本を探してあちこちドライブしたり。ずーっと行こうとしてた図書館に行って本を借りてきたり。
知り合いのつてで、ペンションのお手伝いをしたり。
無印のテーブル買って、部屋に置くのに汗たらしながら簡単な模様替えをしたり。
やはり、動いて人と触れ合うと違う。気持ちが変わる。
留まっていた心が動くのがわかる。
行動するには不安がつきもので、いざやってみるまではその不安に支配されてウツウツが大変なんですが・・。
それも、自分の傾向なんだと分かってきました。
そんな自分を変えたい、そんな自分が嫌だ、と思っていましたが、
いろんな人の言葉を参考にして、「これが今の自分だ、これでいいんだ。こういう時は不安になりやすいけど、少しずつ気持ちを変えていこう」と思うようにしています。
しかし、そんなところへ衝撃が。
休職に入って振り込まれた給料明細を目の当たりにして、完全に「ナイナイパニック」になってしまいました。
わかっちゃいたけど・・。
働いてないのにもらえるんだから何も困るはずないんだけど・・。
すごいゼータクなこと言ってるの、分かってんだけど・・。
じゃあ、って、元の仕事するのなんか絶対ヤダ。あのまま働いてたら何をやらかすか、自分でも怖い。
あんな疲れまくって自虐していた日々に戻りたくない・・。
そうやって、一生懸命バカ真面目に働いてきて、蓄えたものはたくさんあります。
でも、今まで「ない」生活をしたことがないということと、今あるものが減っていくのみ、という思考が自分を苦しめているのです。
まさに、「欠乏意識」のど真ん中。
社会人1年目、もちろん貯金もない。なのに給料が底をつくまで楽しく生活してました。
それが少しずつ増えていってから、使う事に抵抗を感じるようになったのです。
人間て、ほんとに果てしなく欲があるんだなあと若いなりに思ったものです。
子どもの頃から「お金が、お金が」と言われてきたので、「お金はないと困るもの」という感覚がこびりついてるのかもしれません。
どうしてお金のことでこんなに不安になるんだろう、と、ほんとに嫌になります。
ざっと今までの生活費を計算しても、無収入でもしばらく暮らせるはずなんです。
そして、この時間を自分のために、自分を豊かにするために、使えるお金も絶対あるはずなんです。
なのに、今の私のアタマは無一文・・。
カウンセラーに、「お金が1円もなくなったときにどうするか、本気で考えたことないと思う」と言われたのに、その想像がまだできない。
そしてお金に直面するとこうして不安で自分を苦しめる。
なんのために、しんどい思いして、自虐してまで頑張って、ためてきたお金なの?
こういう時のために使うんじゃないの?
使わなかったらどうすんの?
「お金ってさー、使わなかったら紙屑だよね」・・なんつって、したり顔で言ってたじゃん。
本当にしんどかった時、「お金なんかいらないから休みが欲しい、時間で帰りたい」って、すごい顔して言ってたじゃん。
あんな嫌な思いまでしたのに。
働いてない、休職制度でお金もらえるのに少ない、このままいけば減っていく・・。
なんてつまんない考えだろう。
いま、やりたいことできるのに。
今こそ、やりたいことして、新しい可能性広げられるチャンスなのに。
お金が心配だからやめるの?
お金が無くなるのが怖いから、部屋に閉じこもってるの?
そのまま通帳だけ平行線で、60、70になっていけばいいの?
自分の中の親友が、こう言ってる。
自分の中の親友、これとても良い自己対話なので、また後程備忘録します。
欠乏意識から生まれる不安、罪悪感、
これが自分を苦しめる。
自分の心が喜ぶことをしようって決めたのに、お金が自分をいじめる。
お金に対する自分の価値観が、自分をいじめてる。
お金は、自分を豊かにするために使うもの。
無駄使いとはちがうんだよ。
そりゃ、前に比べてずっと減るよ。でも、もともとあるじゃん。今まで頑張った結果が、ここにあるじゃん。
働いて働いて通帳の数字が増えて、やりたいこといくらもできなくて、たまに行く旅行に罪悪感感じて、60までいくの?
ばっかみたい。
欠乏意識。
「ない」から「ある」に気持ちを向ける。
そして、
自分は幸せだ、自分はツイてる、お金なら十分ある
これを言い聞かせていく。
感じられなくてもとにかくブツブツ言う事から。
欠乏意識から脱することができたら、私の心は相当変わって、ますます生き生きして笑顔もきれいになる。
やりたいと思ったこと、絶対やるぞ。
これは自分にとって大切なものだ、これがあると心が喜ぶ、これを食べたら心が喜ぶ、
その為にお金を使うんだ。
今朝、友人から
「不安なことは色々あると思うけど、今は元気なることが最優先。
元気になればなんでもできるよ。
私もあの時と比べたら
信じられないくらい今働けて体力も戻ってる。
やりたいことだけやるのが今の仕事だよ。」
このメッセージに救われました。
きっとまた、普通に働いてなんだか普通に生活してるはず。
でも、今日も1日お金に振り回されて終わりました・・。
この癖、不安思考の癖、
ぜーったい克服してやる!
留まらず、上書きする

ここ何年も仕事と休日は1人で過ごす、のサイクルでいて、
2015年の年末なんて仕事に疲れまくってて早くお正月休みになってほしかった。
年末年始は人に会わずにゆっくりするぞ!って、
そこまではなんとか耐える・・、と必死。
この時すでに仕事にも人にもすっかり疲れてたんだよな。
それでも、職場の人間関係がこじれてなかったから救われていたというか、なんとかやれていたというか。
やっぱり、そこに恋愛が入ってしまったからとんでもなくこじれてしまった。
それはそうと、1人になりたいっていう、人に疲れていたという状況は何年も続いてて、
行きたくて行く友人のところも、心のどっかで「しばらくは1人じゃないんだなあ・・」なんて思っていました。
そんな風に感じる自分はどっかおかしいって思っていたし、そんな自分を他人のように見ていました。
友人のとこで1週間ほど過ごす楽しみと、1人になれない苦痛が同居していました。
実際、遊んでも出かけても、疲れが慢性化していて早く帰って横になりたかった・・。
そんな今、1人が寂しくて仕方ありません。
人に疲れて1人になりたい自分も本当だったけど、問題は疲れていたことであって、
本当は誰かと一緒がいい、誰かと一緒は安心するし楽しいことがわかった。
幸せになることや、その幸せが本当に壊れることが怖かったから、「そんなうまくいくはずがない」と幸せを避けて否定していたし、
その怖さを避けるには最初から1人でいればいいと思っていた。
今は、当時の自分がそう思っていたということが分かってしっくりはきています。
じゃあ、どうするか。
とにかく身も心も疲れていたから、ひとまず休むことに専念はしていたけれども。
そして自分と向き合うことや本当はどうしたいかということにも取り組んでみたけれども。
休んでるだけ、向き合ってるだけでは時は進んでいかない。
時というか、自分の歴史というか。
辛くてしんどくて悲しかった場所が最後で、そこに留まったままになっているのです。
あたし。
もう、休日は1人になりたいと思うほどの働き方はしたくないし、実際あんなに毎日くたびれていた日々には戻りたくありません。
前の仕事そのものに何の未練もないし、
人間関係や恋愛で傷ついた心は確かなもので、絶対戻りたくない。
寂しさや悲しさは十分に味わったし、多分これからも襲ってくる。
それを否定せず、「そうだね、悲しいよね」と、その感情を認めることは大事だけども、それだけでは前に進まないような気がする・・。
やりたいことはあるんだよな。
パステルアート、もっともっと描きたいし、体も動かしたい。勉強もしたい。
でも、全然腰が上がらない。
腰が上がらないのはまだ本心は「やりたくない」んだから、無理しなくていいんだよ。
それもそうだけど・・、
何もしないと辛い記憶や人付き合い、自分の世界そのものが上書きされていかない。
そんなの嫌だな。
昨日、その思いが確信に変わったのでした。
パステルアートのレッスンに行って、そこでカウンセラーとお話しして、
その思いが確信に変わりました。
カウンセラーの背中一押しのおかげです。
すごく清々しい気持ちになりました。
「幸せになりたい」では、今の自分が幸せではないということ。
日々の些細な「幸せだな」を増やしていく。
自分と向き合う事も大事だけど、そればっかりではそこで止まってしまう。
過去が襲ってきたら、「悲しいよね、そうだよね、お父さんにも会いたいよね」と、その思いを認めてあげて、
同時に日々の幸せも感じていく。
ご飯がおいしい、心が楽で嬉しい、やりたいことができて良かった、
1人でも幸せだな、それが2人なら、大勢なら、もっと幸せだな。
今の自分は幸せだな、それがこうなったらもっと幸せだな。
今の生活や自分を減点しない。
こうならいいな、だと、足りないところにフォーカスされてしまう。
今の7割の幸せで、それでいい。
少し足されて8割、9割だともっと幸せ。
よし!
やってみよう!
やりたいこと、やろう!
やりたいことにお金がかかっても、それは自分を豊かにする自己投資、
それをやって、自分が豊かになればお金も自然と入ってくる。
しばらくはやりたいことしかしない!
そして、いいな、やってみたいなとうっすら思っていたことが本当になりそうなこともありました。
どうなるか分からないので、あまり浮かれないようにする。
でも、できるの?やった!・・と、すごく嬉しく思ったことは忘れたくない。
これも自分でつかんだ巡り合わせだと思う。
大丈夫、やれる。やったらきっと楽しい。
これからは、自分が生きたい生き方をするんだ。
少しずつ動いていこう、と思った昨日でした。
今日もその気持ちは変わっていません。よーし。
誓う

七夕ですね。
願い事を言える日。
そんな事を言えるありがたさ。
幸せだー。
昼間から暑くて、夕方は夕日も出てて、雲が多かったけど少しずつ晴れてって、
月がキレイに出てるから天の川はあんまり見えません。
夕暮れは夏のにおいがしてきて、季節を感じました。
ここんとこ数日眠りが浅い。
早朝に目が覚めて、水飲んで二度寝して、でも眠りは浅いからゴロゴロしてて、起き上がるのが10時。
かといって昼寝もしない。
夜もやたら眠くなったりしない。
でも昼間はだるくない。
3日続けて起きたらまず部屋の雑巾がけをしてます。
なんとなく、体を動かしているつもり。毎日床を裸足で歩いても気持ちいい。
やっぱり3日ほどだけど、食事の用意とお風呂が億劫じゃない。
それはとてもありがたい。
1人で目的のない外出は億劫です。ちょっとした買い物なら行かなくてもいいや、むしろ面倒。
これで睡眠がまとまってるといいのになー。
でも、別に次の日仕事な訳でなし、眠れなくてもいいかー、と思える。
そう思える方が楽です。
おととい辺りまで左まぶたが重かった。
ここ数日、お腹の調子もイマイチ。
睡眠もまとまらないし、
ストレスの感じは少ないけど、ストレスでキンキンだったときの症状に似てる。
自律神経失調症的なヤツ。
これは、まだまだくり返すのかな・・。ストレスが完全に消えたわけでも、心が安定してきたわけでもないから。
昨日の昼間、「あー、ゆっくり過ごすの、いいなー」って思ってました。
夜からなぜか気持ちが感傷的になり、今日の夕方も空を眺めてたら感傷的になった。
感傷的になるとすぐ泣く。悲しくて泣けるのは良いと思える。
怒りを感じる日、それらから解放された楽な日、怒りはどこへやらの感傷的な日、
これもこうしてくり返していくのかな。
感じるままに過ごしていくのだね。
七夕
自分を好きになります
誰よりも自分の味方になります
どんな私も許してあげます
すてきな幸せを作ります
なりますように、なんていう他力本願ではなく、「なりたい自分になる」
星に願いをってより、星に誓う。
ってか。
罪悪感

月曜日、受診があったのでその帰りに友人のところに寄る予定もたてて行ってきました。
通院はこの夏でまる4年になりますが、私の主治医は診断名を言わない方。
で、私の様子を聞いたあと、「薬はどうしますか?」と、私がどうしたいかを聞く。
私がいまの様子を話したところで、医者として私がどういう状態にあるかとの見解は示さない。
「少しずつ眠れるようになってきたのでこの薬は2錠じゃなくてもいいです。」
「安定剤は1日2回で済んでて、まだ余りがあるので1日2回の処方でいいです。」
こんな感じで3年。通院を始めて1年くらいして診断名を聞いたら、「適応障害としています。」と言われました。
困ることもなかったし、睡眠剤と安定剤が欲しかったのでこれといった治療やらを希望していたわけではなかったんですが。
さすがに今回だいぶ調子が悪くなって仕事もできないし、休みたいし、「うつ病チェックリスト」とやらをやってみると当てはまりまくるし、
完全にウツに移行しただろうと思っていました。
自分の感情を知るようにしたり、自分がどんな風に考えてどんな風に自分を潰していくか、
けっこう分かってきたので、第一段階クリアしつつあるかなーとは思っていたんだけど、
そうはいっても気持ちが塞いでしんどいことがあるし、買い物がしんどいとか行動が億劫とか、ちょいちょい困ることあるんだけど、
あたし、いったいどういう状態なの?と思って聞いてみました。
「私うつ病ですか?いや、かといって抗うつ剤を飲みたいとかそういうわけじゃないんですけど、急に落ち込んだり泣けてきたり、朝のスタートは悪いし、買い物も困ったりお風呂がどうしても面倒なことがあるし、意欲はないし・・。うーん・・。」
「うつ病の一歩手前だと思っています。買い物とかもですね、困る状態がいつまでも続くことはないということは知っておいてください。」
うつ病、ではないのか・・。
とても複雑な気持ちでした。
うつ病ではない?
ほんとに?
でも抗うつ剤は飲む必要ないとも思うけど、うつ病じゃないの?
そもそも診断名言わないって、どうなの?
他の医者にも診てもらってみてもいいかな‥。でも余計な薬だされてもな‥。
薬については、『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』という、宮島賢也さんの著書で言われていることにとても納得しています。
抗うつ剤を飲むとその時の落ち込みといった症状は抑えられるのだけど、症状が消えることでなぜ落ち込むようなことになるのか、問題の本質が分からなくなってしまうんだそうです。
うつ病の症状は、「あなたはこういう事で苦しんでいるんだよ」という、身体の悲鳴を知ったり考え方や生き方を見つめなおすサインなんだと。
そのサインを消してしまっては、良くなる機会を逃してしまう。
私もまさに何十年もかけて歪んだ思考を持って感情に蓋をする癖をもってしまったので、しんどい時こそ「どうしたの?今しんどいんだね、○○のことに怒ってるんだね。そう思っていいんだよ」と苦しいながらにも自分に言うようにしています。
なので、抗うつ剤で症状を消す、というのは、私にとっては良くない事なんだと思っています。
では、なぜうつ病ではない「一歩手前」で複雑な気持ちになったのか・・。
「うつ病じゃないのに休んでいいのか?」
という思いからの罪悪感でした。
ただ、複雑な気持ちの正体が罪悪感なんだと気づくのが、今までにない早さでした。
会計待ちの間にわかった。
受診を終えて、友人のところに行ってこの話をしたとき、友人はあっさり「良かったじゃん」と言いました。
良かったのか‥。
罪悪感があることも話しました。
じゃあ、働けるの?働きたいの?休みたくないの?と自分で聞くと、「嫌だ。働けない。働きたくない。休みたい。」と強く思う。
医者とか、診断名とか、そういうものがないと「休んでいい」と自分で思えない。
自分を許してあげられない。
そうじゃないはず、「自分が」休みたいのかどうかなんじゃないのか?
やっぱり人に認めてもらわないと自分を許してあげられないんだなー、と、改めて思いました。
人にOK出してもらわずに自分の主観で決めると罪悪感を持ってしまう。
ま、長年それで自分を守ってきたんだから、そうそう簡単にはね、切り替えられないよね。
友人のところで話して、他に他愛もないことでとても楽しく過ごして気持ちよく帰ってきました。
それでも帰ってきて1人になったらまた不安になって「精神科 診断名 言わない」で検索しちゃったんだけど。
都合よく、「精神科では診断名を言わないことが多いです。」というサイトを読んだので、結局それでまた納得、安心できたんですが。
お風呂に入りながら、
「そうよ、誰がなんて言っても、自分が辛くて傷ついて、休みたいって思ってこうして今過ごしてるんだもん。医者の見解も診断名も関係ない。自分がどうしたいかなんだから。それを今自分で決めてやってるんだから。それでいいんだよ。」
ブツブツ言ってたら罪悪感は消えていきました。
今私は、必要な時間を過ごしている。
正しい選択ができて良かったんだ。
それに、うつ病じゃないんだから、もしこれで転職するとなったとき堂々と「体調崩したのでしばらく休養しました。精神的にも参っちゃって。」って言えるじゃん。
今の主治医は、医者として自分はどう思うかという事は言わないけど、むやみに抗うつ剤出す医者より全然マシかも。
正直、理にかなった処方だと思うしな。
休みたいから診断書書いてほしい、ってお願いしたらすぐ書いてくれたし。
まったく、罪悪感てやつは厄介なものです。
それで自分を全否定しちゃうんだから。
受診の日に友人の家に寄ってきたんですが、「明日はSちゃんが来るんだよ。しんどくなければ。無理ならいいしさ。」とのことで、急きょ2日続けて遊びに行くことになりました。
帰ってくるとそれなりに疲れるし、2日続けて大丈夫かな‥、とは思ったんですが、やっぱ友人と話すと楽しいので行きたいと思って。
朝起きたら気だるさはありましたが、「いや、行きたい!」と起きたらサクサク支度できました。
いつもごちそうになるんだから、と、お昼用にナンプラースープを作ろうと急に思い立って具材から調味料から準備を始めて、
その準備もササッとできて、
向かう車の中ではウキウキでした。
「あー、あたし今ウキウキしてるぅ~」
その日もとても楽しく過ごせました。
できたじゃん!というのも良かった。
その日久しぶりに再会したSちゃんにも自分の状況を話して、「いつでも誘ってね、お散歩でもお出かけもできるよ」と言ってくれて、嬉しかったな。
一進一退、それでも少しずつ前に進む!
パステルアートは昨日の夕暮れに描いたものです。
コンビニ攻略法

今日(というか、7/2のこと)も朝からゆっくり。
布団カバー洗ってコインランドリーで乾燥かけて、その間に買い物しようと思ってました。
夕方でいいな、と。
で、そのように動いたんだけど、いざコインランドリー行ったら買い物に行くのがすっごい嫌になって、
家に戻る。
買い物嫌なんだ、行きたくないね、いいよいいよ。
洗濯できて乾燥機かけに来たし。
今日の夕飯はコンビニで済まそう。
で、コンビニ行ったけど、全然選べない。
これ食べたいってものもないし、
かといって欲しいものないって帰っても‥。
そんなんでお弁当売り場の前でウロウロ‥。
前々からコンビニで欲しいものないなあ、というのは自覚してたけど、
これはあれか?選べないってヤツか?
スーパーは買うもの決まってるから困らないけど、
このままお弁当買ってご飯にしようって思っても、決められない。
ウロウロ、ウロウロ・・。
決められないっていうか、欲しいものもないし、これでいいやとも思えないし‥。
なんかやだな。興味ないってのも、決められないってのも。
ウツっぽい。
それでもなんとか決めて買ってきて、家に戻ったら友人からLINE。
「洗濯できた?」
「コインランドリーには行ったけど、乾燥かけてる間買い物しようと思ってたのに急に嫌になっちゃって。夕飯もコンビニで済まそうと思ったのに全然決められなくて困っちゃった。」
「そっかー。洗濯はできたから良かったね。それが目的だったし」
「買い物が疲れるんだよね。スーパーは買うもの決まってるからいいけど、コンビニで何か選ぶ、ってのが大変で。」
「決められない時はパンと牛乳とか、おにぎりにする、とかは?おにぎりなら、鮭→昆布→シーチキン→明太子、とか。」
「そっか、もう決めてけばいいんだ!今日はパスタ買うとか、冷やし中華にするとか。コンビニ入る前に決めてけばいいのか!」
なんでこんな簡単なこと、思いつかなかったんだろう。
欲しいものないけどコンビニでいいなら、言い換えればなんでもいいんだもん。
その場で決められないなら先に決めてそれしか見なければいいんだ。
友人が私の立場になって一緒に考えてくれたことが本当に嬉しくて、「ありがとう!」と泣き笑いのスタンプを送りました。
こんな、どうでもいいこと。「なんだっていいじゃん」でも済むようなこと。
しんどそうだな、と思ってあれこれ考えてくれたんだと思います。
コンビニから帰ってきて気持ちが落ちていたので、その心遣いもすごく嬉しかった。
それに、コンビニ攻略法もわかったし。
こうやって支えられて過ごせていることに感謝です。
今日はそういう嬉しいことがほかに2つもありました。
8月に東京に連泊する用事があるのですが、友人の旦那さんが私の状況を知って安く済むようにホテル探しをしてくれたり。
遠くに住む友人に仕事してないことやっと話すことができて、「そうだったんだね」と受け入れてくれたり。
ああ、今日は良い日だった。良かったなあ。
パステルアートも2枚描けました。
赤ちゃんの生活
昨日は思いつくままに書いたなあ。
また、改めてもうちょっとまとめよう。
今日はずーっとテレビ見てます。
日テレの音楽番組。けっこうおもしろい。去年より楽しんでる気がする。
自分が変わったのか、今年のラインナップが楽しいのか。
でも楽しめてるからいいや。
友人とLINEしながら見たり。
午前中は遠くの友人とLINE動画をして、子供たちとも話せました。
途中、眠くて昼寝したら2時間近く寝ました。
眠くなった感じ、1時間いかないかなー、と思って寝たけど2時間近く寝たなんて。
LINEしてた友人は2歳になる前の子どもがいて、午後はお昼寝の時間です。
昼寝する前と起きてからとLINEして、「2時間も寝ちゃったよ、あたし○○ちゃんと一緒だ」って送ったら、
「赤ちゃんの生活って理想的だと思う。
早寝早起き昼寝付、3食+おやつ2回
ストレスのない毎日」
いいなあ~、と続くのですが、私はそっか、と思いました。
よく寝て、ご飯食べて、途中眠くなったら寝る。
ストレスのない毎日を過ごすんだ。
なんかもう、潰れるまでストレス感じたんだから。
こういう生活でいいんだ。これが休むってことだ。
休み始めて2ヶ月近く、どう休んでいいのか分からなくてたくさん検索して、
それも不安で不安で仕方なくて、何か答えが欲しくて、
そしたら気分良くしよう、良くなるように休もうと散歩に出てみたりいっぱい本読んでみたりちょっと遠出したりして、
結局疲れて、
カウンセラーに頑張って休もうとしてると言われてもまだ分からないくらい。
6月に入ってからぱたんと色々することをやめました。
先週、友人の家から帰る時に「そうか、あたし本当は仕事ができなくなって去って追われない自分が悔しくて嫌だったんだ」と気づいたとき、
明日からずーっとぼんやりしようと思いました。
それから家を出てません。昨日急に夜コンビニ行っちゃったくらい。
夜も夜、23時過ぎ。こんな時間に外に出たのは休み始めて3か月、初めてです。
毎日毎日ずーっと部屋でのんびり、テレビ見たり海外ドラマ見たり、
思いついたらブログ書いて。
パステルアートもあまりこの1週間くらいあまり描いてないけど、それでもいいんだって思えてます。
職場から荷物を撤収しても、何にこんなに悲しいのか分からなかったけど
本当に自分が思っていたことに気づいてから楽になりました。
彼から突然きた、意図が分からなかったメールの動揺もおさまって眠れるようになってきました。
あのまま、意図は分からないままだけど、
もう彼からは連絡は来ない。
私も連絡できることがないし、コンタクトがあると動揺して自分がどうなるかもわかったし、
それに支配されると自分の今がなくなるし。
もうそれぞれの生活なんだ。
寂しいけど「ない」生活を受け入れて慣れていかないと。
それが今の自分にとって必要なことなんだな。
ぼんやりしたゆっくりした生活でも、気づくことは色々あります。
また、改めてもうちょっとまとめよう。
今日はずーっとテレビ見てます。
日テレの音楽番組。けっこうおもしろい。去年より楽しんでる気がする。
自分が変わったのか、今年のラインナップが楽しいのか。
でも楽しめてるからいいや。
友人とLINEしながら見たり。
午前中は遠くの友人とLINE動画をして、子供たちとも話せました。
途中、眠くて昼寝したら2時間近く寝ました。
眠くなった感じ、1時間いかないかなー、と思って寝たけど2時間近く寝たなんて。
LINEしてた友人は2歳になる前の子どもがいて、午後はお昼寝の時間です。
昼寝する前と起きてからとLINEして、「2時間も寝ちゃったよ、あたし○○ちゃんと一緒だ」って送ったら、
「赤ちゃんの生活って理想的だと思う。
早寝早起き昼寝付、3食+おやつ2回
ストレスのない毎日」
いいなあ~、と続くのですが、私はそっか、と思いました。
よく寝て、ご飯食べて、途中眠くなったら寝る。
ストレスのない毎日を過ごすんだ。
なんかもう、潰れるまでストレス感じたんだから。
こういう生活でいいんだ。これが休むってことだ。
休み始めて2ヶ月近く、どう休んでいいのか分からなくてたくさん検索して、
それも不安で不安で仕方なくて、何か答えが欲しくて、
そしたら気分良くしよう、良くなるように休もうと散歩に出てみたりいっぱい本読んでみたりちょっと遠出したりして、
結局疲れて、
カウンセラーに頑張って休もうとしてると言われてもまだ分からないくらい。
6月に入ってからぱたんと色々することをやめました。
先週、友人の家から帰る時に「そうか、あたし本当は仕事ができなくなって去って追われない自分が悔しくて嫌だったんだ」と気づいたとき、
明日からずーっとぼんやりしようと思いました。
それから家を出てません。昨日急に夜コンビニ行っちゃったくらい。
夜も夜、23時過ぎ。こんな時間に外に出たのは休み始めて3か月、初めてです。
毎日毎日ずーっと部屋でのんびり、テレビ見たり海外ドラマ見たり、
思いついたらブログ書いて。
パステルアートもあまりこの1週間くらいあまり描いてないけど、それでもいいんだって思えてます。
職場から荷物を撤収しても、何にこんなに悲しいのか分からなかったけど
本当に自分が思っていたことに気づいてから楽になりました。
彼から突然きた、意図が分からなかったメールの動揺もおさまって眠れるようになってきました。
あのまま、意図は分からないままだけど、
もう彼からは連絡は来ない。
私も連絡できることがないし、コンタクトがあると動揺して自分がどうなるかもわかったし、
それに支配されると自分の今がなくなるし。
もうそれぞれの生活なんだ。
寂しいけど「ない」生活を受け入れて慣れていかないと。
それが今の自分にとって必要なことなんだな。
ぼんやりしたゆっくりした生活でも、気づくことは色々あります。
認められるために、見捨てられないために
嫌な思いに苛まれて辛い時、
だいたい前向きな行動はとれないのでぼんやりしてることが多いです。
まあ「ま、いっか!どーでもいい、かんがえなーい!」‥なんて気持ち切り替えるチカラがあればこんなウツウツしない。
見捨てられる恐怖、
これは子供時代の経験から来ていると思います。
世界で一番好きな父親が11歳の時に急死しました。
倒れて1週間で亡くなった。
倒れたその日、「お父さんが死んだらあたしも死のう」って思った。
本気で死のうなんて思ってない。そんなことあり得ない願掛けです。
でも、その願掛けがかなう事はありませんでした。
父親は、どんな私もいつも愛してくれました。
母親は、物心ついた時から怖い存在で、私はいつも怒られていました。
私が怒られるようなことするんだけど、叱り方がまあ怖くて、
叩かれるのは常だし、家から出されるし。
それを助けてくれるのはお父さん。
母は、怖くて話せなかった。それでももちろん慕っていくんだけど、
圧倒的に父の方が好きだったから、学校の話しとか、話をするのはいつも父親。
母が意地悪なことを言ったとき、それが冗談だと分かっていても信じたふりをして、
帰ってきた父親に泣きついて、「お母さんがそういうんだけど、ほんと?」なんてウルウル見上げて、
「お前、そんな事言うなよ」とたしなめる母を見ながら、
「お父さんはあたしの味方なんだ」と、優越感を持ったことを覚えています。
正確には、思い出したんだけど。
父と母はとても仲が良く、けんかしているところを見たことがありません。
いつも私たち子どもが寝に部屋に入った後、ふたりでお茶菓子を食べながら色んな話しをしていて、子供ながらに安心していました。
そんな父親が突然いなくなり、
父が亡くなった途方もない悲しみと一緒に、
母とどう暮らしていくのかという、漠然とした不安があったのかもしれない。
私より愛していた父が亡くなって、
お父さんがいなくなって私が残ってごめんなさい
お父さんがいなくなった悲しみで、私たちを殺そうとしないで、怖い
明日はあるかな
お母さんが困らないようにするから
掃除洗濯、弟の面倒、土曜日は弟の分のお昼を用意する
草取りだけは大嫌いでやらなかった
でも、母からありがとうと言われたことはなかった
それでも、「やるべきこと」として、ありがとうを言ってほしいなんて発想もなかった
そして、私も母に「ありがとう」と言ったことがなかった
中学になって部活を始めて、眠い、私の役目であるお風呂を洗わない
私がお風呂を洗わなければ絶対代わりに洗わず、そうするとその日の湯船はなし
洗ってくれてもいいのに・・、と思いながら、しぶしぶ洗う
夕飯の片づけ
眠くて眠くて寝てしまう
台所は汚れた食器がそのまま
寝て起きた夜中の1時、片づける
やらない自分が悪いから
それが当然でした。
自分の役割だったし、母の方針と躾だと思ってたから。
いつしか父が亡くなったあと、まだ小学生の私と弟を1人で育てた母は「世界で一番尊敬する人」になりました。
「ただいま」と言っても「おかえり」と言ってもらったことがない。
話しかけても顔は見てくれない。
そういう人なんだと思っていた。
聞こえてるからいいし、たまに小さく返事がある時あるし。
でもいつしか母に話そう、という気持ちはなくなっていました。
学校の事、友達のことなんかもちろん、悩みや相談をする相手ではなくなっていた。
言葉が厳しい母は、
テストの点が良くても「もっとやればできるのに、やらないからこれ止まり」と言います。
節約を頑張って周りの子と同じように生活してしっかりご飯が食べられて、部活もさせてくれる、
「養ってんだから手伝え」と言います。
友達から電話が来ると、向こうからそれは大声で「長電話してんじゃねえ!」と怒鳴ります。
なぜか私の洗濯物を踏む。
決められた家事をして、帰りの遅い母なので夕飯を作っても、
笑顔ではあるけど「ありがとう」は聞いたことがない。
母を怒らせると口をきいてもらえない。
何日も、何週間も。
物を頼むことが怖くなり、経済的に負担をかけてるからお金が必要でもらう時はあの手この手を考えて、なんとか頼んだ、怖かった。
母には小さな頃から「ブスだよねえ」と言われてた。
口唇裂と口蓋裂、反対咬合のある私は確かに変な顔で、それで小さな頃上の男の子たちにいじめられてたように思う。
赤ちゃんの頃から手術を繰り返し、成長に合わせて成人するまで何度も手術をしました。
全部、母が病院に連れてってくれて、手術も受けさせてくれました。
母が言う「ブス」は、冗談だというのはわかっています。
でも私はブスなのです。
どんなに周りから可愛いと言われても、私はブスなのです。
部活では常に県で上位の成績をとった私。試合は県大会まで見に来てくれました。
でも優勝はできなかった。
世界で一番尊敬する母に認められるように、母が良いと思うように、頑張る。
母が喜べば安心。
母から褒められるということは存在しない。
それはまだまだ自分の頑張りが足りないから。
・・でないと、私は見捨てられる。
当時の自分は「そうでないと、母に見捨てられる」という自覚なんて持っていません。
でも常に母の顔色をうかがい、大人になるにつれて母が良いという道を今まで進んできたことは事実で、
それも何の疑いもなく選んできました。
自分が「こうしたい」と思って選んだことなんかありませんでした。
そんなことも気づかなかったんです。
父はもちろん、母にも十分愛されてると思っていたし、母の悪態は愛情の裏返しだと良くわかっています。
でも、その愛情の裏返しでも、
父の代わりに自分が残ってごめんなさい、という思い、
母に認められていないという思い、
褒められない、ありがとうがないのは自分の頑張りが足りないという思い、
まだまだ頑張らないと喜んでもらえない、こんな自分じゃだめだという植えつけ、
そして、母が望むとおりにならないと、ずっと罪悪感を持って生きる。
常に罪悪感がある。
そんな私を認められるわけがない。
こんな基盤ができてしまったようです。
アダルトチルドレンなんだと、やっと自覚しました。
1月にあまりにも自己否定と彼との関係が辛くなってカウンセリングに行ったときに、
「インナーチャイルドを癒しましょう」というワークをしました。
そこで初めて指摘を受けたのですが、当時はまったくピンときておらず、仕事のストレスの大きさに向き合える余裕もなく、
仕事を休んでゆっくり考えた時に、自覚できました。
いろんな本やサイトを読んで、当てはまるものも大きすぎるし、
アダルトチルドレンだと自覚したとカウンセラーに話したとき、カウンセラーも否定しませんでした。
子どもの頃の記憶は、カウンセラーにワークをしてもらって思い出したことです。
普通のことだと思って、異常だなんて思わなかった。
褒められないことが自己否定を生むなんて。
母に自分のことを話そうと思わなくなったことが、
人に本心を話すということの壁になっていったようにも思います。
私にとって心うちを話すということは、すごく勇気のいることです。
嫌われる恐怖もあるし。
世界で一番愛する父が突然いなくなる、
どんなに愛する人も、ある日突然いなくなる。
母が褒めない私はまだまだ足りない人間なんだ、
母が認めない私を自分でOKだしちゃいけない。
自分が正義だと思っていた思考が自分を苦しめていたなんて。
父が亡くなってすぐは母もかなり辛かったはずで、それで怖いことを言ってしまったのはわかる。
覚えているくらいだから、強烈な記憶ではあるけれど。
でも、母に見捨てられたくなかったのか、それは分からないけど、
今の私をすごく心配しているのはものすごくわかる。
アダルトチルドレンを自覚したとたんに母と距離を置きたくなって、今まで聞き慣れていた母らしい言葉使いに嫌悪感をもつようになったし、
結局私と母は共依存の状態にあるから
これを機会にお互い本当の意味で自立しなくちゃいけない。
でないと、お互いの幸せにならない。
自覚したところで母のことはまったく嫌いじゃありません。
むしろ、まだ「こんな私」「働けなくなった私」は母の望む私じゃないという罪悪感があって、そんな自分も完全には許せてない。
でも、それでは幸せにならないから、克服したいと思っています。
ただ、
見捨てられる恐怖に対して、
母が心配している今の事実を思ったら、私は母に見捨てられることなんかないんだと思いました。
そして
得られる幸せは、お互いに自立できることだ。