退屈、無気力、孤独力



10月の半ばくらいから「なんだか退屈」と思い始めて
そう思い始めたら今日1日どう過ごそう‥と思うことが増えてきました。

それまでは退屈と思うことなんかなくて、用がなければほとんど寝ていたのでまた少し良くなってきたかな、と思っていました。
退屈と思うことはいいことだよな、と。
少し前にも書きました。

しかし、退屈だから時間があるからと、行動に移すこととはまた別で、どうしていいかわからないんです。
したいことがないし、時間があってどうしようという気持ち。
時間があるからって「何しようかな♪」とウキウキしない。
長い、まだ2時間もたってない、
でも何もしたくない‥。
何もしたくない‥。
動きたくない‥。


退屈だけどしたいことがない、用がないとどうしていいか分からない、ただ座ってテレビがついてて、時間だけが経っていく、
気分としては孤独感が強い気持ちです。
だから退屈と思うのはいいことだよな、と思っても、楽ではないんです。
むしろ苦痛。苦痛な時間です。


なんでだろう。


1ヶ月くらいそんな状態が続いて、やっとわかったのが‥、

苦痛なのは退屈なんじゃなくて、時間がたくさんあるのにしたいことができない無気力でした。


したいことはたくさんあります。
本を読んだり海外ドラマの続きを見たり、どこかに出かけてみたり気になっているところを片づけてみたり。
絵も描きたいし食事に合わせなくても何か料理したっていい。
できることはたくさんあるのに、
する気にならない。それに、「何ができるかな」と考えるのも面倒でした。
する気にならないで、結局「退屈‥」と言いながら座ったまま。
お腹が空いても食事を作るのが面倒、退屈で時間がたくさんあるのに面倒、お風呂も面倒。
寝るころになったらなったで、歯を磨いたり服を着替えたりというそのものも面倒で面倒で‥。


人と会う用があればちゃんと出かけられます。
楽しみだし楽しく出かけられる。
ウォーク&ランは起きっぱなしに着替えさえして、帽子かぶっちゃえば出て行けるし、習慣のようになってきたのでできる。
なぜかできる。
寒くて面倒な日もでてきたけど‥。


誰かがいないと過ごせない、それだと自分主体の時間を過ごすことができない。
「だれか」が現れるまで、待つしかない。


ひとりでも楽しく過ごしたい、したいことができるようになりたい、
それが誰かと一緒ならなおさら楽しい、それだけのこと。

無気力の対策をして、孤独力を鍛えていこう。


最近はウツウツと悩んだり過去の事にくよくよしたり、それでざわついて落ち着かないということがかなり減ってきたので薬も飲まずにいることも多かったんですが、
無気力も立派に「普通の生活」を妨げる。
薬を飲むとやる気がちゃんと出てきて、面倒だったちょっとしたことが普通にできる。
胸のざわつきがなくて薬を飲まなくても過ごせてそれが良い状態だと思ってたけど、
それはそれで良かったんだろうけど、
無気力についてもちゃんと薬飲んでたほうが良かったのかもな。
ま、飲むことが減って気づいたわけだからいいのか。
主治医もなんとなくわかってたのかな。新しく薬勧められたけど。
でも、今ある薬で十分効くし、新しく出してもらうんではなくてちゃんと飲んでみよう。


そう思って最近積極的に薬を飲んでみようと思いました。


そして、ウォーク&ランや山登りをきっかけに長い距離を歩くことが楽しいと思うようになってきたので、

○○カフェに歩いて行ってみよう
図書館に歩いて行こう、その時にこのお店に寄ろう
○○のカツ丼が久しぶりに食べたい、それじゃここに車を置いて、長距離歩行して行ってみよう


無気力から抜けた時にそんな計画をたててみました。
そしたら少し楽しくなってきて、たてた計画を実行したいと思うようになり、実行も少しずつできています。
まだできていないことは、予定日をちゃんとたてています。

そしたら、すこし孤独で寂しいと思う時間も減ってきた。
退屈で辛いという発想もなくなってきた。


やはり孤独力を身に付けるのは大きな力になりそうです。

私は人に依存する傾向がすごく強いし、相手が良いと思うように合わせて自分の意思は後回しにすることが普通だし、人に気にしてもらえないとすねて離れて気を引こうとする。

孤独力をつけて自分を大事にできるようにならないと、人に与える力なんて到底持てるようになりません。


当面は無気力との戦い。
今日だってさっそくお風呂がダメだったけど
ま、いいや、やっぱり薬飲まないと無気力になっちゃうんだなって思えばいい。わかればいい。
明日実行したらいい。

でも明日は友人に会うから嬉しい。


人と話せる時間があるのはやっぱり嬉しいんです。
  


絶不調



夕べはエアコンもつけてきちんと睡眠環境整えて寝た。
最近の中ではよく眠れたので良かったです。
曇ってるし、暑すぎず快適。


しかし、気持ちが晴れない、相変わらず。
曇ってる天気と同じ。


傷ついたきっかけの相手に怒りを感じる。
死んでほしい。

精神科医の水島広子先生は、「怒っている人は困っている人なのです」と。
確かに。
怒りの感情、嫌な記憶が抜けなくて、不快で不快で不快な時間が辛くて本当に困る。


嫌な気持ちから抜けられず、気持ちを留めたままにしている、環境を変えて新しいことを重ねていこうと動き出したのに、
なかなか簡単には楽にならないもので。
苦しいし思考パターンを変える方法が分からないので本を読んで「なるほど」と参考にしてるけど、
知れば知るほど迷いも生まれるし、辛かったことにフォーカスされていく。
あれは仕方なかった、相手はコントロールできない、そんな中、私は傷ついた、修復には時間がかかる、
傷ついた自分も不完全な自分も不完全な相手も理解できる。
でも、傷ついた苦しさがとにかく苦しい。
今は傷ついているんだから、仕方ない。吹っ切れない自分がいる、と受け入れているつもりだけど、
どこかで自分にダメだししているのだろうか。
傷ついている自分、傷ついた出来事、それはやはり自分に原因があると思うのだろうか。

私は悪くない、あの時直後の自分はむしろその衝撃によく耐えたと思う。

傷つく側も傷つける側も、不完全な人間で、完璧な人間などいないのだから、
それを許せないとどんどん生きづらくなる。
傷ついた自分は労わってあげたい。あれで傷つかないのは無理。
言葉を発した相手も不完全な人間。


わかっている、理屈では。


でも、苦しい。
あの人は、何年も会わずしてもまだ私を苦しめるのか。
形を変えてまで。
悪魔だ。
どうなってほしい?
もう死んで欲しい。


今日は心からそう思うのです。

苦しみが憎しみを生み、自分も苦しめている。


これが今の自分。それはそれでいいんだ。
死んでほしいんだよね、あんな奴、自分の中から消えてほしいんだよね。
もう関わらなくてもいいはず。そんな場面になっても、関わらないようにすることはできる。
自分が嫌なら、いいんだよ。脅威の対象なんだからもう会わなくていい。関わらなくていい。死んでほしいと思っていい。

なのに、
相手の事を知っている、という事実。
過去の現実。
積み重なった、嫌な思い出。
親しかった時のことまですべて打ち消す嫌な思い出の数々。


忘れたい。

記憶って、切り取れたらいいのにと
本気で思う。

悔しい。


ちゃんと自分を好きになって幸せになれるように小さな自分の幸せを積み重ねていきたいのに
あいつらが邪魔をする。

許せないからいけないの?
忘れられないからいけないの?
自分も相手も不完全だと、心で感じられないからいけないの?
許せない、死んでほしいと思う自分は幸せになんかなれないよね。


これが自分へのダメだしだ。


許せなくていい。
忘れられなくていい。
自分も相手も不完全だと、心から思えなくてもいい。
死んでほしいと思ってもいい。
自分が思う事は全部認めて受け入れる。言葉をかえて言い聞かせなくていい。
できないことはしなくていい。
自分を全部受け入れて、認めてあげて、許したら、幸せになれる。
焦らないで。

ちょっとでいいから
ちょっとの時間でもいいから
楽な時間をもてるようにしようね。


たくさん買った本も、
読みたくないときは読まないし、これは自分に該当しないと思ってもいいし、知りたいことはこういう事じゃないと思ってもいい。


苦しいなあ。


できるようになったことはある。
楽しいと思えることもある。
楽しみもある。
苦しいことはあるけど、とにかく今を生きよう。


齋藤一人さんの「過去は変えられる」の言葉の意味を理解したいなと思います。  


ざわつく



胸がざわつく。

なんだか調子が悪い。
良い日悪い日あることはわかってるけど、不安に支配されるとこの先大丈夫かという思考がどうしても出てきてしまう。

しかも、ひとつのことに苛まれて頭から離れず、それがどんどんスイッチしていくわ、前のものは解消されないわ。


2日前、久しぶりに体重計にのったら増えてた。
しかもそこそこ増えてた。
調子悪くして落ちたことを思えば、この休みで体重が増えるのは良いことだと思うんだけど、
一度減った体重って、やっぱり増えるといい気がしない。

あ、健康っぽーい!って思えたら苦労してない。


もー、ネガティブだなあ。

それだけならまだしも、数字で確認すると途端に全身が太って見える。
よっぽど私の見えるものは歪んでいるようだ。
腕が足が、気になって仕方なく、睡眠にまで影響が出る始末。

2年前は今よりもっとあった体重。計っても計ってもちっとも変わらないのに、こんなに気にしなかった。

お金の次は体重かよ。


あー、もう、不安癖がかなりのもんになってる。
目に見えるもの、心を捕らえるものが自分を苦しめている。
睡眠がイマイチのせいか、余計に思考が悪いような気もする。

どうした、自分
大丈夫か、自分

今以上に増えなきゃいいし、休んでからかなり運動量減ってたし、減った分が戻っただけじゃない。
だいぶ落ちた時はご飯の味も悪いし、毎日が地獄のようだったし、喉が潰れるような泣き方して神経もエネルギーも使い果たしてた。
それに比べたら、きちんと休んで嫌な場所から逃げてきて、自分を大事にできているんだよ。


うーん・・。


何かしているとき、「今」に集中できるようになって、過去や未来、とくに明日の心配をして保険をかけて活動に制限したりすることがなくなってきて、それはいいことだなあと思ってるんだけど・・。
自分スキスキキャンペーンが少しずつ効果があるのか、罪悪感やこんな自分が悪い、ともあまり思わなくなってきたし。

なんか、ひとつの事にとらわれて不安やざわつきに支配されて苦しい。
最近ひどいような気もする。
毎日が楽ではない。


なんか、考えた方がいいのかな・・、と、迷う。  


おかね ナイナイ思考



前回のブログを書いてから、だいぶアクティブに動くようになってきました。
動くことで気持ちが晴れることも体感したし、楽しいと思えるし。
そうしたら、お風呂に入ったり料理することもささっとできるようになってきた。
ささっと、というか、ささっと動き出すことができる。とにかく億劫じゃない。
これは本当に楽です。
昨日も買い物に行くのに化粧をしてたけど、でかけるから化粧しようというのがすごく自然で、
あー、なんか違うなー、と思って嬉しかった。

7/14は渋谷にトークライブに行ってきました。
東京に行くのは実に半年以上ぶり。一度5月に行こうとしたけど、当日の朝になって出勤前のような気分の悪さが襲ってきて、とてもバスにも東京の電車にも乗れないと、ドタキャンしたんです。
それがあったから、怖くて行く気になれなかったけど。
実際になったらバスも電車も平気、渋谷も新宿もズンズン歩いて意気揚々としている。
意気揚々としている自分がちょっと誇らしげで、帰りにバスから見る山の景色も心なしかすごいきれいに見える。

やったねー。

この連休が明け、おいおいヨガやリズムストレッチの講座を受けたいと思ってた施設へ様子見に行ってみたり。
実際とても居心地良くて、初回体験で骨盤歪みをみてもらったり併設カフェでご飯食べたり、服やマグカップ買ったり。
本を探してあちこちドライブしたり。ずーっと行こうとしてた図書館に行って本を借りてきたり。
知り合いのつてで、ペンションのお手伝いをしたり。
無印のテーブル買って、部屋に置くのに汗たらしながら簡単な模様替えをしたり。

やはり、動いて人と触れ合うと違う。気持ちが変わる。
留まっていた心が動くのがわかる。


行動するには不安がつきもので、いざやってみるまではその不安に支配されてウツウツが大変なんですが・・。
それも、自分の傾向なんだと分かってきました。
そんな自分を変えたい、そんな自分が嫌だ、と思っていましたが、
いろんな人の言葉を参考にして、「これが今の自分だ、これでいいんだ。こういう時は不安になりやすいけど、少しずつ気持ちを変えていこう」と思うようにしています。


しかし、そんなところへ衝撃が。


休職に入って振り込まれた給料明細を目の当たりにして、完全に「ナイナイパニック」になってしまいました。

わかっちゃいたけど・・。
働いてないのにもらえるんだから何も困るはずないんだけど・・。
すごいゼータクなこと言ってるの、分かってんだけど・・。
じゃあ、って、元の仕事するのなんか絶対ヤダ。あのまま働いてたら何をやらかすか、自分でも怖い。
あんな疲れまくって自虐していた日々に戻りたくない・・。


そうやって、一生懸命バカ真面目に働いてきて、蓄えたものはたくさんあります。
でも、今まで「ない」生活をしたことがないということと、今あるものが減っていくのみ、という思考が自分を苦しめているのです。


まさに、「欠乏意識」のど真ん中。


社会人1年目、もちろん貯金もない。なのに給料が底をつくまで楽しく生活してました。
それが少しずつ増えていってから、使う事に抵抗を感じるようになったのです。
人間て、ほんとに果てしなく欲があるんだなあと若いなりに思ったものです。


子どもの頃から「お金が、お金が」と言われてきたので、「お金はないと困るもの」という感覚がこびりついてるのかもしれません。
どうしてお金のことでこんなに不安になるんだろう、と、ほんとに嫌になります。
ざっと今までの生活費を計算しても、無収入でもしばらく暮らせるはずなんです。
そして、この時間を自分のために、自分を豊かにするために、使えるお金も絶対あるはずなんです。

なのに、今の私のアタマは無一文・・。


カウンセラーに、「お金が1円もなくなったときにどうするか、本気で考えたことないと思う」と言われたのに、その想像がまだできない。
そしてお金に直面するとこうして不安で自分を苦しめる。


なんのために、しんどい思いして、自虐してまで頑張って、ためてきたお金なの?
こういう時のために使うんじゃないの?
使わなかったらどうすんの?
「お金ってさー、使わなかったら紙屑だよね」・・なんつって、したり顔で言ってたじゃん。
本当にしんどかった時、「お金なんかいらないから休みが欲しい、時間で帰りたい」って、すごい顔して言ってたじゃん。
あんな嫌な思いまでしたのに。
働いてない、休職制度でお金もらえるのに少ない、このままいけば減っていく・・。

なんてつまんない考えだろう。

いま、やりたいことできるのに。
今こそ、やりたいことして、新しい可能性広げられるチャンスなのに。
お金が心配だからやめるの?
お金が無くなるのが怖いから、部屋に閉じこもってるの?
そのまま通帳だけ平行線で、60、70になっていけばいいの?


自分の中の親友が、こう言ってる。


自分の中の親友、これとても良い自己対話なので、また後程備忘録します。


欠乏意識から生まれる不安、罪悪感、
これが自分を苦しめる。
自分の心が喜ぶことをしようって決めたのに、お金が自分をいじめる。
お金に対する自分の価値観が、自分をいじめてる。


お金は、自分を豊かにするために使うもの。
無駄使いとはちがうんだよ。
そりゃ、前に比べてずっと減るよ。でも、もともとあるじゃん。今まで頑張った結果が、ここにあるじゃん。
働いて働いて通帳の数字が増えて、やりたいこといくらもできなくて、たまに行く旅行に罪悪感感じて、60までいくの?


ばっかみたい。


欠乏意識。
「ない」から「ある」に気持ちを向ける。

そして、
自分は幸せだ、自分はツイてる、お金なら十分ある
これを言い聞かせていく。
感じられなくてもとにかくブツブツ言う事から。
欠乏意識から脱することができたら、私の心は相当変わって、ますます生き生きして笑顔もきれいになる。
やりたいと思ったこと、絶対やるぞ。
これは自分にとって大切なものだ、これがあると心が喜ぶ、これを食べたら心が喜ぶ、
その為にお金を使うんだ。


今朝、友人から

「不安なことは色々あると思うけど、今は元気なることが最優先。
元気になればなんでもできるよ。
私もあの時と比べたら
信じられないくらい今働けて体力も戻ってる。
やりたいことだけやるのが今の仕事だよ。」


このメッセージに救われました。
きっとまた、普通に働いてなんだか普通に生活してるはず。

でも、今日も1日お金に振り回されて終わりました・・。 


この癖、不安思考の癖、

ぜーったい克服してやる!  


悔しかったのか



友人のところに遊びに行って、
1週間で感じたこととかしんどかったこととか、いろいろ聞いてもらいました。
先週遊びに行ったときに渡せなかったというラベンダーの花に変わり、今日は黄色い花。
黄色い花は元気が出ます。


そして帰りの車の中で、ほんとは自分がどう思ってるのかに気づきました。
元同僚や上司に自分が思っていることを正直に話してみたり、職場の荷物の撤収までしても、
なぜ悲しくなるのか、いつまでも執着しているのか。


「ああ・・、仕事に行けなくなった自分が悔しかったんだ。
ストレスに負けた自分が許せなかったんだ。」


本当は、悔しかったんだ。負けたこと、できなくなったこと。
寂しさや依存に負けて、好きな人に好きでなくなるような自分になったこと。
人に喜ばれる自分じゃなくなったこと。


嫌な思いもしてトラウマになってそれが辛くて被害者感覚すら持ちながら、
結局つまるところはそんなことになるような、そんなことになった自分が今も大嫌い


辛くて辛くて耐えかねて、仕事から離れて休むことを選んだ自分は許せるけど、
あの場に行けなくなるような状態になった自分が、悔しかったんだね。
頑張っても頑張ってもできなくて、思うようにいかなくて、そして何もできなくなって、
ウツになって笑えなくなって。

仕事を休まないといけない、逃げたような自分、
人と明らかな壁を作ったことが原因で去る自分、
できなくなった自分を
認めたくなかった。

でも辛いから、行きたくないから、会いたくないから休みたいけど、
惜しんでほしくて
来ないことを悔やんでほしくて


お前が必要だ、お前じゃなきゃダメだって言ってほしくて仕方ない。

そしてそれがないこと、ない自分にがっかりして、そんな惨めな自分が嫌いで認めたくなかったんだね。


負けるのも悪くないとか言って、
本当は、ずっと勝ち続けたかったんだね。
誰にも負けたくない。
自分が一番じゃなくちゃいけない。一番でいたい。
一目置かれる自分でいたい。
その為に、必死で必死で頑張った。


だから、それができなくなって結果逃げるような自分なんて、絶対見たくなかったんだ。
どんなにそれが、間違いでなくて必要なことだとしても。
それは自分が認めるんじゃなくて、
人に追いかけて来てもらうことで、惜しんで惜しんで悔やんでもらうことで、
初めて認めることができる。
自分で自分を許すのではなくて、
人に許してもらわないと状況を受け入れられない‥。


弱音を吐くような自分では嫌われる、それも本当にあった気持ちだけど、
やっぱり何よりも、弱音を吐く自分を自分が嫌いだった。
できない自分、弱い自分、どんな何よりも
それを自分が本当に嫌いだったんだ。


今は、
ほんとに今の今は、
「どうしてる?」の連絡もなく、こうして去った自分を追ってもらえない、
そんな自分が惨めで見てられなくて、
孤独というより情けなくてその状況とそれにさらされている自分を受け入れられない。

追ってきてくれるはずの人たちがいるところを
自分は「できない人間」になって去る。
できなくなった自分が嫌い
慕われない自分にがっかり


そんな自分いじめ、かわいそうだ!!



いろいろ思い悩むと書いたりしながら自問自答して、感情に気づきながら自分と向き合ってきたけど、
人と話すことで頭が整理されてタイムラグで気づくこと、けっこうあります。
心を開いて人に話す、っていうことは本当に大きな効果があります。
聞いてくれる友人には本当に感謝です。

自分嫌いの自己否定、自分いじめがまだまだ根深くあることが分かって悲しくなったけど、
分かったせいか胸のつかえがとれました。
不思議なもんで、本当に良かったと思いました。


休職するきっかけになった職場のスタッフが連絡してこないことは、私を気遣ってのことだろうというのはわかります。
でも、自分に自信がないから、「私がいなくなってホッとしてるんだろう」という自虐の思いの方がはるかに上回ってしまうんです。
「連絡するに値しない、勝手に辞めてったんだろう?その間、こっちは散々苦労した。これでおわり、さよなら。」
相手が何を思おうと、自分にはコントロールできないし分かったところで何が変わるわけでもない。
実際、毎日の忙しさにいちいち私の事なんて考えてるほどの暇なんてないでしょう。私だったらそうだ。
ほんとにホッとしてる人もいるだろうし、
何か言いたくて言えなくて、なにやら変なつっかかりを残してしまってる人だっているかもしれない。

でも、その憶測が起こす結果は自分いじめ。



悔しかったんだね、追ってきてほしかったんだね、
そう思っていいんだよ。
人とうまくできなかった自分、そして逃げた自分、追われない自分、惨めに思う自分、
本当に、そんな自分でもいいんだよ。

そうやって自分を許していくこと、そんな自分でも愛してあげること、
なかなかできるようになるには時間がかかりそうです・・。

それでも黄色い花を見ると、心が和みます。  


ウツウツの強い朝




ウツウツ、ウツウツ、
朝からウツウツ。


ウツの症状通りなのかなんなのか、朝はやっぱり気分がよくない。
目覚めこそ良かったものの、徐々にズンズン、ズンズン、沈んでいく・・。

あー、昔は休みの朝なんてすがすがしくてウキウキして、
今日何しよう!これしよう!なんて感じだったのに、
そんな日が来るのが待ち遠しいなあ~。
自分から楽しいをつかみに行くパワーがみなぎる日。

夕べもなんとなくいいまとまりにしてみたものの、
こうしてウツウツの日々は続く
あー、しんど。
切り離したい気持ちもいっぱい
未練もいっぱい
いろんな未練がいっぱいあって、
本音の本音は、仕事辞めて解放!幸せ!・・とまでは思えていない。

苦痛から逃れた解放はあるけれど、
離れたところでおこる苦痛もある。
なんせ苦痛を生み出すのは天才的な才能をもっちゃってるからね。

あいつらー、みんな不幸になればいいのにー!!
・・って、心底思うし、まだまだそこから離れられないでいるんだよな。
そこにしか、世界を作れずにいたから。
心が傷ついて傷ついて。
身体の傷も心の傷も変わらない。深い深い傷はいつまでも痛いし治りも悪いんだ。
嫌なことはすっぱり忘れる!楽しい気持ちにすり替える!、という理屈はよーく分かるけど、
無理な時は無理なんだよ、まったく。
それができてりゃウツなんかになってねえっつうの。

おー、やさぐれてら。



元気になったら、旅したい。
未だとらわれてるお金の不安なんか「どうにかなるだろ」っつって、ポーンと飛んで、
海が見たい、沖縄行きたい。
運動だってしたいし、新しい勉強もしたいし、この経験で学んだことを生かして色んな人に出会いたい。
世界を広げたい。
優しい気持ちをもちたい。

夜明けまでの暗い暗い道のりは本当に辛いなー。


でも今日は友人に会いに行く。それはほんとに楽しみなんだ♪
元気もらってこよう。
今日は美味しいもの持ってって、一緒に食べよう♪
「人にどう思われてもいいと思ってさー」ってさらっと言った彼女、「お金ないけど買っちゃったよ、へへへ」って笑う彼女、
まーたあたし、ちっさいことでウジウジ悩んでんな、考えすぎてたなー、ってのを、もらってこよう。


しんどい時は無理しないで、ちゃんとお薬にも頼ろう。


今日は、夜を乗り越えるのがひとつのキモなのだ。無理ならここで色々書こう。


ありがたいことに、今だって書き出したらウツウツが少し軽くなってきたよ。
今日は連続投稿だな。  


人目

今日はそこそこちゃんと起きて、あえて着替えて、散歩に行ってみた。
空は快晴だし緑はきれいだしまだ9時前だし気持ちがいい。
近くの公園まで車で行って、歩いてみました。

しかし今日は土曜日。
そんなにたくさん人はいないんだけど、たまに向こう側からやって来る人がいるとソワソワしてうつむいてしまう。
誰に会うか分からないと思うと落ち着かない。

元気なときはそんなこと気にもしなかったし、知ってる人に会うなんてことほぼゼロに近いほどなかったのに。

今日になるまでも、週末はなんとなく外に出づらかったんだよなー‥。


そして、今日はすぐ近くの商店街でイベントがありました。
歩行者天国にして、Jazzバンドが音楽をくり広げるという、なんとも楽しそうなイベント。
ウツウツがひどくなってから心躍るっていうウキウキ感がとんとなくなっていたから、久しぶりに「楽しそうだなー」と、行こうと思ったんです。
先輩誘ったら仕事でダメだった。でも1人でも行きたいと思って行ったんだけど・・。
会場に近づくにつれ、人を見るにつれ、下を向いてしまって「・・ダメかも」と思って、それでも裏側から歩行者天国エリアを見てみたらあまりの明るさに「こりゃ無理だ」と帰ってきました。

ダメかー。

外に出たいとか、何か見たり聞いたりして感じたい気持ちはすごくあるのにな。
どうせ孤独なんだし、だーれも知らないところでぼんやり過ごしたいなあ・・、とほんとに思う。
ま、平日ならまだ誰かに会うかも、っていう怖さがだいぶ減るから、また週明け出てみよう。梅雨が本格的になる前に。


今の生活でできることを考えよう。
  


辛い記憶からのスイッチ

今日も朝からイマイチな気分。
睡眠はイマイチだった。
何もしたくなければ何もしなくていい、とはいえ
ボーっとしててもなんだか身のおきどころがなくモヤモヤモヤモヤ・・。

歩きに行くか!と、無理やり動き出しました。
先月は「気分良くなりに行こう」と「頑張って」いて、散歩なんかにちょいちょい行ってみたんですが結局疲れた。
それで、散歩もほんとに行きたいときに、と思ったらここしばらく行ってなかった。
無理やり着替えてCCクリームだけ塗って帽子かぶって、パステルアートの画材探しにダイソーやら文房具店など周ってるうちに調子が上がってきました。
だるさやめまいがあればほんとにダメだけど、
今日はそうじゃなかったみたい。良かった。
大きな川が流れる脇の、整備されて林がきれいな遊歩道を歩いたら気分も良くなりました。
家に帰って映画見ながらお昼も食べて、掃除もできました。


帰ってくる途中コンビニに寄って雑誌コーナーを眺めていたら齋藤孝さんの本に目がいきました。
本のタイトルは忘れてしまったけど、ぱらぱらと中身を見ていて気にとまった章は「辛い出来事を忘れられない時」


辛い出来事と言うか、忘れたいのになかなか忘れられないこと、たくさんあります。
今回のウツウツでもトラウマにもなったこともあるし。
少しずつ消化できてきましたが、消化作業はそれは大変なものでした。
まだ完全ではないけど、少しずつ楽になってきています。


今まで我慢していたことが、その場所(職場)から逃げて解放されたとき、強い怒りの感情になって襲ってくるんです。
怒りの感情はそれは凄まじいもので、呪いにも似た気持ちでした。
それこそ、怒りの感情が強すぎてそれを感じている間辛くて、死にたいと思うくらいでした。
でもずっと我慢していたこと、ほんとはこうして欲しかったのに言えずに我慢して受け入れようとして無理をしていたこと、
それを解放してあげなければずっと残ります。


私は子供のころから自分の感情に蓋をする癖をつけてきてしまったので、「自分はいま何を感じているか」をきちんと感じることを心がけています。ノートにも書くようにしています。
「今、心がざわざわしている」「今、緊張している」「今、不安に思っている」←それはどうして?
「今、心が軽くて楽だ」「今、こうしていて嬉しいと思っている」
練習みたいなものです。


それでも、なかなか解消されないこともあります。

今回のお休みと同時に好きだった人とお別れしました。
同じ職場の人で、長い付き合いではなかったけど、心から好きだったのでとてもつらい選択でした。
しかも、世間にお伝えできる付き合いではなかったので誰にも相談できず、嫉妬や辛い気持ちもひたすら隠して我慢に我慢を重ねました。
私の体調がどんどん悪くなるにつれて心も離れていることを感じて、そのことが追い打ちをかけるように辛さに拍車をかけました。
私のウツウツは4年前から基盤ができていましたが、これだけ強くなったのはこの恋愛が大きな原因です。
好きすぎて依存してしまい、思うように会えない寂しさに耐えられなくて辛い日々ばかりになってしまいました。
自分に自信がなくて自己否定ばかりの自分を好きになってくれてとても大事にしてくれたので、本当に嬉しくて安心して、頼り切ってしまって、
避けられてる、と感じた時のパニックたるや相当のものでした。
私の存在を肯定してくれたことそのものを否定される、私にとっては何にも代えがたい苦痛だったんだと、今では分かります。
最後は言われたことが悲しくて腑に落ちなくて傷ついて、色々言いたいこと言いまくってしまったけど好きなまま終わりにしたのでとても辛い。


それでも、すごく好きな人なんだから、お別れは存分に悲しんで、悲しい気持ちに蓋をしないようにしようとそれに向き合ってきました。
不意によぎった時も、「会いたい、辛いよう・・」と泣く。
思い出すのは良いことばっかりじゃない。
「どうして私の理由も聞かずに決めつけたようなものの言い方をするんだろう」「きっともう、あの頃から私と一緒にいるのは面倒だったんだろうな」
そう思うと、おでこからクチビルあたりまでびっしり顔に縦線が入る・・。


齋藤孝さんは本の中で、
「辛い出来事から離れようという気持ちも大事だ」と言われてました。
なんせ立ち読みだったのですごくざっくりでしか覚えてないんだけど・・。
ご自身、飼われていた愛猫が亡くなって失意のどん底に落ち、あまりにも耐えられずに1週間後新しく子猫を飼ったようです。
その子猫の世話をしながら、先代の愛猫に対する辛い気持ちが薄まっていったと。
他にご友人の例を出していて、どうしようもない時は海外ドラマを見まくるんだそうです。海外ドラマは日本の現実とかけ離れていて忘れることができるんだそうです。


確かに、自分の気持ちに正直になって向き合うことも大事だけど、悲しい寂しいばかり言ってても何か解決するわけじゃない。
「過去」は変わらない、「今」に目を向けないと。
「あの時、あんなふうに思ってたんだろうな・・。そのころからもうだめだったのか・・」で落ち込んだところで何かいいことある?
どこかで自分で線を引かなきゃ。


今日は職場の歓送迎会なんだそうです。
「私の話題、出ないかな・・」と、存在を認めてほしい気持ちはあります。今日のウツウツはおそらくそこが影響してるんだろうな、と。
でも、もう私はそこから離れたんだから。

ちょっとはしんどくても部屋から出て外の空気を吸おうかな、今日はそう思えた日でした。  


こどく どくどく

定番ですが
ウツウツのお休みは孤独です。
人と会う気力なんかもちろんないから
こちらから連絡取ることはめったにないし、
この人なら、と会える人は働いてるからしょっちゅう会えるわけではない。
お休みが始まってすぐに飛び込んでいった友人は遥か遠くに住んでるので会いに行けない。
LINEやSkypeでメールや動画通話ができるけど、しんどいときはそんな気力はない。

でも、寂しいのである。


ほんとに仕事以外の場所でもっと交友関係を作っておくべきだった。
そんなこと前々から分かってたけど、いかんせん深く狭くの付き合いなタイプだし、
だんだん仕事でしんどくなると交友関係を広げる気力も落ちてった。
そもそも心を開けないから交友関係の広げ方も分からなかった。


どうしてそんなに心を開けないのか?
いつからか、人に期待しない自分を作っていったから。


いつかこの人もいなくなる、いつか自分じゃない別のところに行ってしまう。
それなら、自分から離れよう。
一緒にいたいと思うから寂しくなるんだ。
最初から期待しなければ寂しい思いをしなくていい。
ずっと一緒にいることなんて不可能なんだから
そのうち離れることを前提に付き合っていこう。


20代の頃、働き出してお金も自由に使えるようになって、友達といっぱい色んな所へ行って遊びました。
休みの日に予定が入ってない日の方が圧倒的に少なかったし、来月の予定も常に入れていました。
思いつきで誘っても、たいがい誰かのってくれる。
ディズニーリゾートや旅行、お泊りパーティー、いっぱい楽しい思い出があります。

それが徐々に少なくなる。
結婚する子も増えてきて、今までのように予定を入れることが減っていった。


そのうち、「どんなに仲が良くてもどんなに大好きでも、そのうち自分から離れていく」という固定観念ができました。
それは、歳をとるうえで仕方のないこと。
でも心の底ではそれを受け入れることができなかったんですね。
そしてなぜかいつになっても結婚願望が芽生えない。
結婚を考えると、マイナスなイメージばかりを考えて「やっぱり無理だ」と思ってしまう。
1人の人とずっと一緒にいることなんてできるのだろうか・・?って。

少しずつ自由に会える友人が減っていったり、仕事で新しく親しくなった人なんかに強い執着をするようになりました。
心の底に「離れてほしくない」という気持ちがあるから
その相手のために自分は最善のことをする。
予定も合わせて調整をつける、相手が喜びそうなことをする、
でも、自分の基準に合わないと相手を責める、許さない。


「私はあなたのためにこんなに思ってやっているのに、どうして同じようにしてくれないの?」


こんな不満まるだしで態度悪ければ、私なんかと一緒に遊びたくなんかないよな。
そう思って自分から連絡を取らなくなった友人もいるし、
私じゃなくてそっちへいくなら、私も別のところへいくよ。
それで連絡しなくなった友人もいます。


こうやって明文化すると、恐ろしい。


そしてその結果、「私は1人で生きていくんだ。1人で生きていけるために強くならないと。」と思うようになりました。


気がついたら交友関係は今そこにある職場のスタッフがほとんど。
そして仕事が原因でウツウツになった今、連絡を取りたいと思う人もいない。


人に期待しない、1人で生きていく
この根底に自己否定があります。

こんな自分を選んでくれる人はいない
こんな自分に選ばれる人は気の毒だ


今は「本当は人と一緒にいたくて1人は寂しい自分」だということが分かりました。

なぜこんなふうに思うようになったのか?
自分が今まで人に執着していた、その根本の原因を突き詰めていったら、自分がどんな風に人と向き合っていたのか、寂しさを認めないために自分に言い聞かせて納得させようとしていたのかが分かりました。
辛かった。まだ辛い。
それはまた、こんど。


孤独は辛く悲しいです。毎日寂しい。
でもこの孤独の経験は、無駄ではないと思っています。

  


できなくていい

今日は朝からまるっきり調子ワル。
良い日なんて、なかなか来ないものだ。
昨日午前午後とPCに向かって1時間以上、結局ぐったり。
ブログも長々書きすぎた・・。
でも、ネットは1回30分程度と目安がつきましたface01


夕べは早めに睡眠剤を飲んだにも関わらずなかなか眠くならずテレビも見てしまい、
それなのに4時間ちょいで目が覚める。
それからまた1時間ほど寝たけどすっきりしない。
あまり寝れなかった、という事実がまた自分を煽る。


朝起きてすぐに思ったことは、「今日1日どうする?なにかできない?」
どうも潜在意識のなかでは焦りが強いようで、どうか煽る。
「したいけどできない」→「できない」
まだ、できない。
できない自分で良いのに
今日休職手続きのための診断書をもらい、上司に渡してきました。
診断書を取りに行く前からやたら緊張してたけど、これでひとつ区切りをつけることができればいいな。
荷物も撤収して、職場から自分を手放してやっとまた、次の段階に進める気がする。



自分を許したくても許せない時、自分を絵にしています。
ウツウツしている自分とそれに「いいんだよ」と言ってあげる自分。
自分を絵にして客観的に見ると、「ああ、今自分はこう思って辛いんだなあ」「自分で許せてあげられたなあ」と思えます。
心の中で思うより、ずっと効果がある。
具現化すると自分がよくわかる。


Amazonで頼んだパステルが届きました。
他の画材もそろえた。
パステルアート始めるぞface02
絵を描くのは楽しい。パステルの風合いが気分を和やかにしてくれます。