人と話すこと

無気力でいるけれども、
人と会って話したいという気持ちはとても強いです。
ほんとに、ただ制約のない生活をしているからダラダラしてしまってるだけなのかもしれないけど。
孤独力をつけると同時に、会いたい人に会っていろいろ話しをすることが自分にとって必要なことだと感じられるようになりました。
ずっと会ってなかった古い友人から新しく出会う人、じっくりと話しはしたことがなかった人、
今のこの状況だからこそ、できる会話がある。
心を開いて話すことを意識して会話する。
今まで狭い世界でしか生きてこなかったから、
いろんな仕事をしたり生活をしたりしている人たちと出会って話ができることが本当に刺激的です。
いろんな世界があるんだなあとか、いろんな生き方があるんだなあとか、だから自分にも可能性があるんだと励まされたりします。
嬉しいことです。感謝です。
今までに出会わなかったタイプの人たちに多く出会って話しをしていくことで、
ずいぶん長いこと自分の心の範囲の中でしか人と会話をしていなかったんだということにも気づきました。
自分の心の範囲が世界のすべてだとしか理解できなかったんだろうし、理解せざるをえないほど狭い世界で生きていたんだと思います。
それはそれで精いっぱい、そこでできることをしていたんだけど、
いろんな世界があることを知れる方が楽しい。
自分の思い込みや先入観をとっぱらって、その人の思いをただ聞いていると、気づかされることがたくさんあります。
この人が何を思っているのか、
自分には考えがつかないことを考えていたり、
ああ、そういう感じ方もあるんだと思ったり、
そういうひとつひとつを素直に聞けて自分の中に取り込める。
そういう状態にあることにも感謝だし、そういう機会を持てていることにも感謝。
こういう生活や状態にならなければ、知ることができない世界です。
人に会っていろんな話しをして、充実感をもって帰ってくるといつも、
「ああ、私は人の中で生きることが必要なんだな」
と、感じます。
思い込みや先入観をとっぱらって人の話しを聞くのは心地いいです。
新しい感情です。
そういう体験ができて良かったと思うし、そういう体験はこれからもどんどん増やしていきたいです。
ずーっと人間嫌いを公言してきたけど、
依存するほど人が必要だった。
本当の自分に気づけて良かったなあ。
退屈、無気力、孤独力

10月の半ばくらいから「なんだか退屈」と思い始めて
そう思い始めたら今日1日どう過ごそう‥と思うことが増えてきました。
それまでは退屈と思うことなんかなくて、用がなければほとんど寝ていたのでまた少し良くなってきたかな、と思っていました。
退屈と思うことはいいことだよな、と。
少し前にも書きました。
しかし、退屈だから時間があるからと、行動に移すこととはまた別で、どうしていいかわからないんです。
したいことがないし、時間があってどうしようという気持ち。
時間があるからって「何しようかな♪」とウキウキしない。
長い、まだ2時間もたってない、
でも何もしたくない‥。
何もしたくない‥。
動きたくない‥。
退屈だけどしたいことがない、用がないとどうしていいか分からない、ただ座ってテレビがついてて、時間だけが経っていく、
気分としては孤独感が強い気持ちです。
だから退屈と思うのはいいことだよな、と思っても、楽ではないんです。
むしろ苦痛。苦痛な時間です。
なんでだろう。
1ヶ月くらいそんな状態が続いて、やっとわかったのが‥、
苦痛なのは退屈なんじゃなくて、時間がたくさんあるのにしたいことができない無気力でした。
したいことはたくさんあります。
本を読んだり海外ドラマの続きを見たり、どこかに出かけてみたり気になっているところを片づけてみたり。
絵も描きたいし食事に合わせなくても何か料理したっていい。
できることはたくさんあるのに、
する気にならない。それに、「何ができるかな」と考えるのも面倒でした。
する気にならないで、結局「退屈‥」と言いながら座ったまま。
お腹が空いても食事を作るのが面倒、退屈で時間がたくさんあるのに面倒、お風呂も面倒。
寝るころになったらなったで、歯を磨いたり服を着替えたりというそのものも面倒で面倒で‥。
人と会う用があればちゃんと出かけられます。
楽しみだし楽しく出かけられる。
ウォーク&ランは起きっぱなしに着替えさえして、帽子かぶっちゃえば出て行けるし、習慣のようになってきたのでできる。
なぜかできる。
寒くて面倒な日もでてきたけど‥。
誰かがいないと過ごせない、それだと自分主体の時間を過ごすことができない。
「だれか」が現れるまで、待つしかない。
ひとりでも楽しく過ごしたい、したいことができるようになりたい、
それが誰かと一緒ならなおさら楽しい、それだけのこと。
無気力の対策をして、孤独力を鍛えていこう。
最近はウツウツと悩んだり過去の事にくよくよしたり、それでざわついて落ち着かないということがかなり減ってきたので薬も飲まずにいることも多かったんですが、
無気力も立派に「普通の生活」を妨げる。
薬を飲むとやる気がちゃんと出てきて、面倒だったちょっとしたことが普通にできる。
胸のざわつきがなくて薬を飲まなくても過ごせてそれが良い状態だと思ってたけど、
それはそれで良かったんだろうけど、
無気力についてもちゃんと薬飲んでたほうが良かったのかもな。
ま、飲むことが減って気づいたわけだからいいのか。
主治医もなんとなくわかってたのかな。新しく薬勧められたけど。
でも、今ある薬で十分効くし、新しく出してもらうんではなくてちゃんと飲んでみよう。
そう思って最近積極的に薬を飲んでみようと思いました。
そして、ウォーク&ランや山登りをきっかけに長い距離を歩くことが楽しいと思うようになってきたので、
○○カフェに歩いて行ってみよう
図書館に歩いて行こう、その時にこのお店に寄ろう
○○のカツ丼が久しぶりに食べたい、それじゃここに車を置いて、長距離歩行して行ってみよう
無気力から抜けた時にそんな計画をたててみました。
そしたら少し楽しくなってきて、たてた計画を実行したいと思うようになり、実行も少しずつできています。
まだできていないことは、予定日をちゃんとたてています。
そしたら、すこし孤独で寂しいと思う時間も減ってきた。
退屈で辛いという発想もなくなってきた。
やはり孤独力を身に付けるのは大きな力になりそうです。
私は人に依存する傾向がすごく強いし、相手が良いと思うように合わせて自分の意思は後回しにすることが普通だし、人に気にしてもらえないとすねて離れて気を引こうとする。
孤独力をつけて自分を大事にできるようにならないと、人に与える力なんて到底持てるようになりません。
当面は無気力との戦い。
今日だってさっそくお風呂がダメだったけど
ま、いいや、やっぱり薬飲まないと無気力になっちゃうんだなって思えばいい。わかればいい。
明日実行したらいい。
でも明日は友人に会うから嬉しい。
人と話せる時間があるのはやっぱり嬉しいんです。
山登り

先日誘われて山登りしてきました。
数年前はまったく興味がなかった山登り。
マジな山登りはむりだけど、日帰りで行けるような山なら登ってみたいなと自然に思えました。
同時に、だったらあれ着てきたい、バーナー持ってって頂上でお茶飲みたいと思って、どんどん行きたくなって、
改めてお誘い頂いた時には二つ返事で「行きます!」と答えました。
当日は素晴らしいお天気で、快晴。
少し風が強いし天気予報でも「北風が強いから寒さに注意してください」って言ってたけど、
いざ登り始めたら風もほとんどなくて、素晴らしい天候に恵まれました。
登った山は守屋山。
1300m程度の山で、往復で3時間ほどで帰ってこられるという山。
頂上の景色は見渡す限りの絶景で、八ヶ岳や南アルプスが見渡せるという山。
期待膨らませて歩きました。
初心者ばかりの3人で登りましたが、初心者にはちょうどいい程度に傾斜がきつかったり緩やかになったりで、
ガイドにある時間通りに歩くことができました。
「あー、私たち人並みだ、良かったね」
登っているときの目に見える景色、キレイな紅葉、顔に当たる風、木のざわつきや落ち葉を踏む音、落ち葉や空気の匂い、暑かったり冷えて寒くなったり、休みながらお茶飲んでチョコ食べて美味しくてまた歩いて、
ずっと五感で感じるすべてが気持ち良かった。
山登りは五感すべてを使う。
体が目覚めてくる感覚が気持ち良かったです。
頂上の景色や笑顔、おにぎりやお湯を沸かして飲んだスープや甘酒やお茶が美味しかった。
足はだいぶ痛くなったけど、爽快感を存分に感じることができました。
私はACを自覚していて、それについても少しずつ克服をかねて勉強していたりするけど、
その特徴のひとつらしい、「生きている実感」がありません。
どういうことかよくわからない。
まあ、あまり考えることじゃないのかもしれないけど‥。
去年、年下の友達に「20代や30代があっという間って感じがしないんだけど、やりたいようにやってきたからかな」なんて話しをしました。
たぶんそうじゃない。
生きてる実感がなかったんじゃないかと思います。
目的も目標も、これからどうしていきたいのかもわからなかったし、それを考えると死にたくなった。
実際、だいぶ年を重ねてきたけど15歳以上年が若く見られたりするし、自分自身も現年齢の自覚がまったくない。
成人、ということもよくわからない。
漠然とそういうことは感じていたけど、生きてる実感がないってことまでは分からなかった。
嫌になったら死ねばいいと思ってたし、今も全くそう思わないということはない。
頭でばかり考えて決めて行動していると、五感はどんどん鈍くなるようです。
五感が研ぎ澄まされていると、自分の行きたい方向に自然に向かうことができるよう。
なによりも、五感で感じるものはとても気持ちいいし心を通るのです。
私は何年も五感を使っていなかったな、と思いました。
山登りで感じた五感すべてが貴重な体験でした。
五感で感じているときは生きている実感がわかる。分かりやすい。
こうやって生きていることってこういうことだという体験をふやしていけばいいのかな。
行って良かった、誘われたこと、これも私の引き寄せのひとつだと思えました。
引き寄せられて気づいたこと

先週の火曜日に思い立って図書館に行きました。
なにか小説が読みたいなあと思って。
料理本とかほかの本を色々眺めて小説の棚に行ったけど、本をどう選んだらいいかわからない‥。
結局心理の棚へ行ってみたら、気になる本があるあるある‥。
4冊借りてきました。
その時の気分で4冊並行に読んでいるけど、
それを通して久しぶりに自分の根底にある問題に向き合っています。
これもまた、向き合うべくして向き合おうとした
そのタイミングを自分のもってるすごい引き寄せで本が目の前に現れたんだろう、直球にくる本がそこにあったんだろう‥、と思わせるくらいに、
読んでは読んでは少しの間封印していた、自分の潜在意識が掘り起こされてきました。
どの本も、一般的なことが書かれているのにまるで自分の事を代弁して説明してくれているようで泣けてしまう。
思い出したくないことも思い出す。
でも、自分のなかでごまかそうとしたこと、感じないようにしたこと、そのせいで消化されずに歪んでしまって今があるんだから、
知ることができて良かったと思っています。
不安も焦りも強くなって少し不安定だけど、
ここは乗り越えるべきところなんだろう。
夏に自分は見捨てられないように今までやってきたんだということを書きましたが、
それを改めて実感しました。
本当に理屈と心がつながった気持ち。
私は見捨てられることが怖いという思いをもっている。
仕事を休む前の
いろんな場面を時に思い出しては
辛くなって
どうしてそんなに辛くなるのか、自分は何を感じているのか、あの時どうしてそんなに辛かったのか。
「見捨てられる」という潜在的な怖れが具現化して目の前に現れたからだ。
その「怖れ」は自分で感じないように封印していたから
怖いという感情に気づけない。
でも心はわかっているから
焦る、不安になる、怖くて仕方がないとサインをだす。
でもどうしていいかわからない。
悲しいという感情は無意識に隠そうとするけど
今回ばかりは隠すにはあまりにも大きくて脳がパニックをおこしてカバーできなくなった。
いまも消化できない、あの様々な場面を思い出すとうずくまりたくなるほどの苦しい気持ちは
全部見捨てられる怖さだったんだ
私より仕事現場の環境を選ぶ
私がいなくてもまわる
私がいなくても楽しそう
私のいないところで事が運ぶ
私の意見を覆す
私は、必要とされていない
私は必要ではない
見捨てられている
今までなんとなく分かってきたような気持ちでいたけど、昨日の夜急に頭と心が一致した。
だからあんなに辛かったんだと、
少しあの時の事を受け入れられるような気持ちになりました。
見捨てられる怖れは同時に「条件付きの愛情」も同伴していて、
見捨てられないためには常に自分が相手の期待に応えられて必要とされていることが必要だった。
条件付きの愛情でないと愛されないと信じているから。
何よりも私を優先してくれること
他の誰より私を大事にしてくれること
私がいると場が楽しい、安心する、頼りになる、
そうやって必要とされることで居場所が確保される
その条件を満たすために私は頑張る
頑張り続けて私を誰より優先してくれて、必要とされることで見捨てられていないことを確認する
そうじゃない私には価値がない
そして何より、私自身が相手にも条件がつかないと愛することができない、愛する方法を知らない
赤ちゃんが何もしなくてもそこにいるだけで愛されるように
「そこにいるだけで価値がある」、自分にも相手にもそう感じることがどういうことなのかわからない
「私は必要とされないのが怖い」
「見捨てられると思うと怖い」
「見捨てられそうと感じたら悲しまないように自分から離れてしまう、だから相手を混乱させる、嫌な思いをさせてしまう」
「そもそも愛着を持ったその人とずっといられるわけじゃない、心を開いても悲しくなるだけ、むなしいだけ」
「こんな私はいつか愛想をつかされる」
その弱さを口にすることができない
弱さを出したら必要とされない、あてにされないと信じているから
心を開くことは相当高いハードルだけど、
心を開いて自分の弱さや怖れを口にすることができれば
「それでも私はそんなあなたが好きよ」という体験ができれば
変わる
何か月も前に教えてもらったことがやっとわかってつかえがとれた。
自分の中に「見捨てられると怖いというものがある」ということがわかったのは大きな収穫でした。
体験した辛い出来事が簡単に消化されることはないけど、
自分の持ってる怖れを自覚したのは本当に良かったと思います。
なによりその点に関しては心がすっきりしている。
過去にとらわれたり未来を思い悩んだりしていては今を生きていることにならない。
あの時うまくいかなかったのはうまい方法を知らなかったし実行もできなかったんだから、
上手くいかなくて当たり前。
上手くいく方法で失敗したんじゃないんだから。
失敗したのはなぜか、わかったじゃない、良かったね。
まだ重くてウツウツしている心の中で、もう一人の自分がつぶやきました。
自分の本質や潜在意識に向き合うのはけっこうしんどいことだけど、
前に進んでいると信じてみたい。
図書館に行ったこと、借りてきた本に巡り合ったこと、読んでみようと思ったことは前に進んだひとつだと思いました。
なりたい自分

最近はまた少し様子が変わってきたような気がする。
ちょっと活動的。
落ちるのが怖い気もするけど、そこは気にせずこのまま続いてほしいなあと思います。
9月から5回コースで受けた心理学の講座が終わって、ちょっとさみしい感じ。すごく勉強になったし、受けて良かったと思います。
私が受けた目的は「自分を知ること」。毎回目からウロコなことばかりで、こんなにも心の作りが単純なのに時に複雑で、その複雑に悩まされてきたけれど、複雑なのは生きてきた証拠でもあったんだな‥、と思うことができました。
こんなにも、自分の事を知らなかったとは。
気持ちを切り替える方法、言葉が行動を変えること、実践的でためになることばかり。
なりたい自分になる
なりたい自分て、どんな自分だろう
なりたい自分になるためにどうしたらいいか?
なりたい自分に今日は近づくことができたかな、直せることはどんなこと?
そう思って、毎日を振り返る
最後に見た、未来の自分は幸せしかなかった。
あんな未来が待っているなら、今をコツコツ大事に生きたいと思う。
「今まで一生懸命頑張ってきたから、もう頑張る必要はない。楽に生きたって良い、引き寄せる力をもっているから」
すごく励みになります。
なにより、あの時全くわからなかった「なりたい自分」。どうなりたいか。
それが想像できるようになっただけでも大したもんだ。
少しずつ自分を肯定できるようにもなったし。
今は刺激のない生活をして安定しているけど、この先また人の中で生きていくときには心を開けるようになっていたいな。
今日良かったこと

今日は定期受診に。
>どうでしたか?
>先月受診に来てからしばらく無気力が続いて、思ったより長かったです。でもいい加減退屈と思ったらそれが憂鬱になりました。明日もヒマ、あさってもヒマだと思ったらなんだか憂鬱で。それで動こうと思ってから1日寝てることがなくなりました。料理したり体動かしたり‥。デパスを1週間くらい飲まないときもあれば何日か飲む日もありますけど、やる気がなくってその時間が嫌なんです。デパス飲むとやる気が出てきて料理はじめたりお風呂入れたりして楽なんです。それならそれでいいかな、と思って。
>抗うつ剤飲んでみます?
>新しくですか?
>そうですけど、どうしましょう。
あまり色々と提案してくる先生ではないなあと思っていたので、私の話しを聞いて「こんなこと、どう?」って言ってきてくれたのが嬉しかったです。
>うーん‥、それでもデパス飲めば動けるし、飲まなくても同じように動ける日もあるし、大丈夫だと思います。それに退屈だって思ったことはなかったので、それは良いことかなと思って。
>うん、退屈ってのは良いことですね。
>そうですよね、このまままた様子みてみます。
文字おこしすると、とんでもなく普通のやり取りなようだけど、受診のあとなんだかすっきりした気持ちになりました。
なんかとても良かった。
その後の薬局でのやり取りもお互い笑顔で良かった。
なんか今日は良い日だった。
明日は友人のお家に行きます。
なんか作ってもって行こうと、買い物して帰っていっぱい料理しました。
さつまいもの甘辛焼き、大根の金平、ルーを使わないで作るシチュー、なすとタマネギの南蛮焼き
どれもおいしくできた!
あとはおにぎり作ってもって行くぞ~、楽しみ♪
~小さな幸せつなぎあわせよう~
スピッツ「正夢」
誰かに相談しましょう、ができなかったワケ

9/1の新学期が始まる日に10代の自殺者が最も多いとのことで、
それを取り扱う番組をたくさん見た。
自殺防止の番組は、なぜか惹かれて見てしまう。どうしてかな、と思った時に自分が感じたのは、
死にたくはないけど生きたいという気持ちもないという事でした。
ネガティブな思考とはちょっと違う、冷めたような気持ちです。
「自分が辛くなる前に、しんどくなったら誰かに相談しましょう」
辛くて何か答えが欲しくていろんな本やネットを見て、共通してあるアドバイスです。
じゃあ、できたか?‥と考えた。
日中はスタッフが集まれる時間をとるのがとても難しくてひとつのワークもできずにいた。それなのに自分のために集まってもらうのは気が引ける。
個々のスタッフとゆっくり話す時間ももてなかった。
自分自身も何かあればすぐに呼ばれて、終われば電話が鳴って、休憩も取れないことも多かったので、
人に話す時間をとるなら休みたいというのも本音。そんな日々が続くうちにどんどん卑屈になっていく。
パートさんや時短スタッフを時間に帰して、残った仕事は引き受けるのが正職員である自分たちの役割という暗黙の認識があって、
毎日「今日はいつ終わるんだろう」と先が見えずに誰にも頼れないような閉塞感がとても苦痛で緊張感も常にあったけど、
それを辛いと言うことは当時の自分には怖くてできなかった。
それを言うことは孤立することにもつながるような気がして怖かった。
自分以外のスタッフがパートと時短スタッフという中で、「私も早く帰る日が欲しいです」と言ってもし孤立したら、
それでは仕事ができない。仕事に影響でたら関係ない大事な人たちに迷惑がかかることになる。
こうなってみて自分と向き合う時間ができて、人に頼むこと、弱音を吐くこと、辛いと言うことが必要だと知った。
渦中にいる時はそんなこと知る余裕もなかった。
きっと、仕事が辛くて生きるか死ぬかのところに立っている人たちもそうだと思う。
人の話しを聞くことも、本で学ぶことも、そんな余裕があればもっと建設的な解決策を考えられている。
そもそも自己肯定感がまったくなく、ダメ出しをすることで自分を高めていくんだということを信じていた私には、絶対に無理だった。
弱音を吐くこと、人に助けを求めるのは弱い人間でそれをしたら「できないヤツ」のレッテルが貼られて認めてもらえなくなる恐怖、正職員である役割をまっとうすること、それに文句を言わないことが正義だと思っていた自分、同時に正職員であれば残って仕事を片づけるのが当然でそれに疑問をもつことが反しているという管理部も含めた暗黙の認識、
それが正解だと思い込んでいて、誰もそうじゃないと言えない中で、自分が感じることがまちがいだと思い、自分の感情を尊重することなんて思いつくこともなく、ただ毎日を必死で、早く楽になりたいという一心で、
結果潰れる。
なってみないと分からない。
でも今は、「辛い時は誰かに相談する、助けを求める」ことの必要さや有効さをよく理解できますし、できるようになりたいと思います。
じゃあ、知った今、同じ職場に戻れるか?
無理だ。
自分の思いだけではどうにもならない環境的な問題がある。
自分を変えるしかない。
それは昔からわかっていた。
でもできなかった。気力でのりきれるだけのパワーがあった。理不尽だと思いながら、それを自己否定しながら、怒りがどんどん膨らんでその力で周囲にあてつけるように必死で働いていた。
とても疲れた。そして、頑張った結果が(現状では)何もない。
休んだ直後から、仕事をしていた実感も未練も何もなくなった。
専門職なのに、専門を生かした仕事をしていた記憶が何もない。
専門以外の、現場のマネージメント的な仕事がいかに多かったかを思い知らされる。
勉強して何度も経験して身に付けた知識と技術で、仕事そのものを楽しむことができなかった。
時間がかかっても、ネガティブな感情しかない状況で必死にやっていた、今は全く実感がないあの働いていた時期を、「よく頑張ったね、あそこまでできるのはすごいね」と、自分でちゃんと認めてあげられるようになりたいと思う。
一生懸命やっていたあの時の自分も否定したくないしな。
わかった今、どうしようか
絵を学ぶ、心理学を学ぶ、カレーの研究をしたい、カレー屋になりたい
生きてて楽しい、嬉しい、これからも生きたいと思えることはなんだろう
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自己否定が辛くてどうしようもないけど、どうして辛いかわからずにいたとき、
どうしても苦しくてLINEで聞いてほしいと、吐き出そうとした。
そしたら話しを聞きに来てくれた。
正直に話した。
「そう思っちゃうんだね」
と、共感してくれたであろうその言葉に引っかかった。
でも何も言えなかった。
共感して言った言葉だと分かっていたからそこには触れなかったけど、胸のつかえはとれなくて、
話しをきいてもらったのに何もすっきりしなかった。
それは、自己否定が強い私にとっては、
「そう思っちゃうんだね」=「そんな風に思っちゃうんだね」=そう思う事はまちがいだ
反復されたことで自己否定をして、苦しくなったんだと後にわかった。
だけど、信頼していたその人は過去に、
弱音を吐かずなんでも自分で解決して、職場の問題にも向き合う私に、
「辛くても自分で話そうと思わないと話さないタイプでしょ?だから変だなと思っても、私もあえて聞かないようにしてるの」と、さも私の事を理解しているかのように言った。
私を肯定する言葉だったんだろうが、忘れずにいるということは心にひっかかったということ。
辛くても反応が怖くて言えない、「どうかしたの?」と聞いてきてほしいのが、本当の私だった。
でも、周りに心配させない態度をとっていたのも実際の私。
この言葉で「聞いてきてはもらえない」と、心にカギがかかり、自分で弱音を吐くことはさらに難しくなった。
全部無意識だったけど、心はちゃんとわかってて、ちゃんとざわついて、
気づかなかったのは私の脳。
そう言われたことが心に残っていたから、「そう思っちゃうんだね」の言葉を否定的に感じたんだと思う。
~学んだこと~
辛い時は辛い顔をするなど、その時の自然な表情をする 無理に笑わない
できるなら、ちゃんと辛いことを言葉で伝える
自分の感情をちゃんと言葉で伝えられるように練習していく
辛いけど大丈夫です、こんなのへっちゃらです、という、周りに心配させないような、それで自分を認めてもらおうなどというやせ我慢はしない
やせ我慢をした結果、私という人間は「話したいときには自分から話してくる、そうじゃないときは話したくない時だから言ってくるまでほっとこう」という、自分に反した認識をもたれた
心がざわついたら、なぜざわついたのか、感情のサインを無視しない
その時修正できなくても、気づいたら誤った認識をもたれたままにしないように相手に伝える
がんばろう、自分
東京3泊4日でわかったこと

スピッツ武道館
8/17.19の公演に行ったので、中日の18日も含めて3泊しました。
この東京3泊で感じたことを備忘録として。
まだまだ道なき道を歩む、旅の途中。
8月はスピッツ三昧、東京と横浜と行く予定になってるけど、
精神的にも体力的にも本当に行けるのだろうか・・、
と、不安になっていた6月、7月。
長野公演だって、高速運転しなくちゃいけないし・・。
しばらく長距離運転してないし・・。
ライブに行きたいという気持ちも強くて準備運動的に少しずつ動き始めたのもあったかもしれない。
少しずつ外に出よう、新しいことをしよう、東京に行ってみよう。
もちろん、それだけではなく自然の経過で気持ちが変わったり前に進みたいと思って動き出したのもあったけれども、
やっぱり人間、どうにかしなきゃいけない、どうにかしたいと本気で思った時は動くのかもしれないと感じました。
で、動き始めて最初の落ち込む反応も体験して、それを超えたらちょっとずつ大丈夫そうだと思えてきて、そのうえなんだか楽だと思えるようにもなってきて、長野公演、東京公演と、迎えたのでした。
長野公演は運転含めて何の問題もなし。
ペンションのお手伝いに行くのに高速を使うようにして慣らしました。
そして東京公演。
高速バスは7月に乗ったし大丈夫。
朝起きるのもペンションで慣れたし、ずいぶん楽になった。
そう思って当日の朝、予定通りに高速バス乗り場に行ったら・・、
予想通り、大勢の人が待っていました。
高速渋滞や満席のバスは十分、承知していましたが、目の当たりにしたら突然緊張しちゃった。
一度スイッチの入った緊張感はなかなか解消できず、なんだかずっとドキドキと落ち着かない。
呼吸も浅い。
こりゃしんどいな、薬飲もうと途中休憩のSAで決めたのに、
「あ!薬、トランクの中だよ!」
大きな荷物の中に入れてしまった‥。運転手さんに頼んで開けてもらおうと思ったのですが、出発時間も迫っている、苦手なトイレもなんだか不安でもう一度行っておきたい‥、
結局トイレを優先して薬は断念しました。
大丈夫大丈夫と言い聞かせながら、
薬は手元に持っていよう‥、と改めて思ったのでした。
でも、辛い時に迷わず薬を飲もうと考えたり、それに罪悪感を持たなかったことに安心しました。
3泊の東京。
もともと睡眠が苦手だし寝床変わったらちゃんと寝れない性分なので、
せめてしっかり休めるように、毎日湯船に入るようにしました。
17日は早朝出発からライブ終わってホテル戻ったの深夜。
相当疲れていましたが、湯船に入りました。
湯船に入る理由を作るように入浴剤も毎日買って。
功を奏したように思います。やっぱり湯船に入ると気持ちいい。
17日の武道館はさかなクンが関係者席に座っていて、「ギョギョギョ~」のご挨拶ができたという嬉しすぎるサプライズ。

中日の18日。
泊まった江古田の街と池袋を散策してみようと思いました。
お昼に合わせて出発。
17日のライブ前に行った神保町のカレーがまあ美味しくて、神保町を歩いているときに目にする純喫茶もとても魅力的で、
神保町にも行きたい‥、と思ったのだけど、
行きたいところ食べたいものが多すぎる。
優先して考えて、オススメされた江古田のパン屋さんに行きました。
大正解!すごく美味しいしお店の雰囲気は良すぎるし。
パンがこんがりとしていてナイフが入らないから、もういいやとかぶりついた。本当に美味しかった。
チキン舞茸サンド。美味しかったなー。
ただ、あまりのボリュームに残り1/3で満腹になってしまい、なんとか食べきったのでそこからしばらくお腹が空かなかった‥。
お店でたら通り雨が降った跡が。ご飯食べてる間に雨が降ってやむなんて、アタシついてる!

そのあと池袋にでて、駅構内を迷いまくったあげくに地上に出て、なんとかエソラ池袋に入ってお目当ての梟書茶房へ。
お目当てのところに着けて良かった‥。
スイーツが食べたい、美味しいドリンクが飲みたいなんて色々思っていましたが、いかんせんチキン舞茸サンドで満腹度120%になってしまったのでコーヒー1杯のみ。
神保町なんてとても行けない‥。
そのかわり、厚いカレー本を見つけてそれを眺めながらゆっくりしてきました。

まだ時間も早いし、せっかくだからルミネを見て行こう。
エソラ池袋のお向かいにあるルミネを見て行こうと入ったは良いものの、
入ってすぐにしんどくなってきて泣けてくるし、こりゃ無理だと帰ることにしました。
東京で当てもなく1人で時間つぶしのようにお店を見て回ってると、彼と一緒にいたことを思い出すことが分かりました。
こうしながら、彼の用が終わるのを待っていたなー、と、まるでそうしてるかのような錯覚になる。
泣けてくるしけっこうしんどいので、しばらくやめようと思いました。
自分がどうすると辛いことが分かって良かった。
東京みたいな都会では、お店周りはしないしするなら誰かと一緒にしようと思いました。
帰ってデパス飲んで3時間ゆっくりして、まったくお腹すかない体を起こして江古田の街をゆるーく散策。
入りたい定食屋さんやラーメン屋さんがいっぱいある~!
なのに全然お腹が空かない!
てなわけで、食べたい松屋のカレギュウをお持ち帰りにして、お風呂や洗濯を先に済ませて21時にゆっくり夕飯にしました。
ここ2.3年、時間さえあれば横になっていたい、ホテルで休んでいたいというのが普通でした。
友達のところに遊びに行っても家でゆっくりしたいというくらい。
なのに、自然と「空いたこの1日は外にでて散策しよう、部屋にこもっていたくない」という気持ちになった。
その気持ちが、大きな変化だと思いました。
そしてそれを実行できた自分が、心底エゲツなくかっこいいぜと思って嬉しかったです。
19日、スピッツ武道館2日目。ものすごくよく眠った。
お昼に神保町で友達と待ち合わせて、2店目のカレー!
共栄堂のビーフカレーとポークカレーを2人で半分こ。スマトラカレーという、初めてのカレー。スパイスが不思議な味、とても美味しい!
昨日の松屋のカレーも含め、カレーってなんて美味しいんだと改めて実感。

そのあとは純喫茶へ。

純喫茶でゆっくりしているうちにもう一人お友達が合流したので、次は紅茶のお店へ移ってライブ時間まで過ごしました。
その間も、楽しいけど長い時間ワイワイと話していると閉塞感があって後頭部から背中にかけてまっ白になるような感覚になって体がしんどくなってくることが分かりました。
前から自覚してたんだけど、17日も同じような感覚があったし、けっこうしんどいんだな、と。
途中デパスを飲んだらずいぶん楽になって、ライブが終わるまで元気だった。
食べたあとにしては時間が空きすぎてるし、心はリラックスしてるけど体が疲れるんだろうか。
みんなと一緒に過ごしたいのでそこはストレスがないんだけど、やっぱりしんどい時は薬飲んでもいいよな、と思ったのでした。
20日、満席ではない高速バスでゆったり帰ってきたものの、
自覚しない体の疲れや心の疲れがあるのか、ギョギョギョなほど眠りました。
ちょっと前まで睡眠が浅かったのがウソのよう。
3泊4日の東京は疲れるんだな。帰ってきて無気力になるくらい。
でも眠くて眠れるのは幸せだからいいや。
今はこれでいい。
そして、いろいろ体験して分かったことがあって良かった。
しんどい思いも分かったし、改めてゆっくりした生活が必要なことも分かりました。
スピッツはもちろん幸せな時間だったけど、いろいろ分かった東京3泊4日。
まだまだ休み始めて日が浅いんだなということも、なんだかわかった。
頑張らなくなってから、力が抜けたところから、が本当のスタート、
ということも、感覚で分かった気がします。
留まらず、上書きする

ここ何年も仕事と休日は1人で過ごす、のサイクルでいて、
2015年の年末なんて仕事に疲れまくってて早くお正月休みになってほしかった。
年末年始は人に会わずにゆっくりするぞ!って、
そこまではなんとか耐える・・、と必死。
この時すでに仕事にも人にもすっかり疲れてたんだよな。
それでも、職場の人間関係がこじれてなかったから救われていたというか、なんとかやれていたというか。
やっぱり、そこに恋愛が入ってしまったからとんでもなくこじれてしまった。
それはそうと、1人になりたいっていう、人に疲れていたという状況は何年も続いてて、
行きたくて行く友人のところも、心のどっかで「しばらくは1人じゃないんだなあ・・」なんて思っていました。
そんな風に感じる自分はどっかおかしいって思っていたし、そんな自分を他人のように見ていました。
友人のとこで1週間ほど過ごす楽しみと、1人になれない苦痛が同居していました。
実際、遊んでも出かけても、疲れが慢性化していて早く帰って横になりたかった・・。
そんな今、1人が寂しくて仕方ありません。
人に疲れて1人になりたい自分も本当だったけど、問題は疲れていたことであって、
本当は誰かと一緒がいい、誰かと一緒は安心するし楽しいことがわかった。
幸せになることや、その幸せが本当に壊れることが怖かったから、「そんなうまくいくはずがない」と幸せを避けて否定していたし、
その怖さを避けるには最初から1人でいればいいと思っていた。
今は、当時の自分がそう思っていたということが分かってしっくりはきています。
じゃあ、どうするか。
とにかく身も心も疲れていたから、ひとまず休むことに専念はしていたけれども。
そして自分と向き合うことや本当はどうしたいかということにも取り組んでみたけれども。
休んでるだけ、向き合ってるだけでは時は進んでいかない。
時というか、自分の歴史というか。
辛くてしんどくて悲しかった場所が最後で、そこに留まったままになっているのです。
あたし。
もう、休日は1人になりたいと思うほどの働き方はしたくないし、実際あんなに毎日くたびれていた日々には戻りたくありません。
前の仕事そのものに何の未練もないし、
人間関係や恋愛で傷ついた心は確かなもので、絶対戻りたくない。
寂しさや悲しさは十分に味わったし、多分これからも襲ってくる。
それを否定せず、「そうだね、悲しいよね」と、その感情を認めることは大事だけども、それだけでは前に進まないような気がする・・。
やりたいことはあるんだよな。
パステルアート、もっともっと描きたいし、体も動かしたい。勉強もしたい。
でも、全然腰が上がらない。
腰が上がらないのはまだ本心は「やりたくない」んだから、無理しなくていいんだよ。
それもそうだけど・・、
何もしないと辛い記憶や人付き合い、自分の世界そのものが上書きされていかない。
そんなの嫌だな。
昨日、その思いが確信に変わったのでした。
パステルアートのレッスンに行って、そこでカウンセラーとお話しして、
その思いが確信に変わりました。
カウンセラーの背中一押しのおかげです。
すごく清々しい気持ちになりました。
「幸せになりたい」では、今の自分が幸せではないということ。
日々の些細な「幸せだな」を増やしていく。
自分と向き合う事も大事だけど、そればっかりではそこで止まってしまう。
過去が襲ってきたら、「悲しいよね、そうだよね、お父さんにも会いたいよね」と、その思いを認めてあげて、
同時に日々の幸せも感じていく。
ご飯がおいしい、心が楽で嬉しい、やりたいことができて良かった、
1人でも幸せだな、それが2人なら、大勢なら、もっと幸せだな。
今の自分は幸せだな、それがこうなったらもっと幸せだな。
今の生活や自分を減点しない。
こうならいいな、だと、足りないところにフォーカスされてしまう。
今の7割の幸せで、それでいい。
少し足されて8割、9割だともっと幸せ。
よし!
やってみよう!
やりたいこと、やろう!
やりたいことにお金がかかっても、それは自分を豊かにする自己投資、
それをやって、自分が豊かになればお金も自然と入ってくる。
しばらくはやりたいことしかしない!
そして、いいな、やってみたいなとうっすら思っていたことが本当になりそうなこともありました。
どうなるか分からないので、あまり浮かれないようにする。
でも、できるの?やった!・・と、すごく嬉しく思ったことは忘れたくない。
これも自分でつかんだ巡り合わせだと思う。
大丈夫、やれる。やったらきっと楽しい。
これからは、自分が生きたい生き方をするんだ。
少しずつ動いていこう、と思った昨日でした。
今日もその気持ちは変わっていません。よーし。
罪悪感

月曜日、受診があったのでその帰りに友人のところに寄る予定もたてて行ってきました。
通院はこの夏でまる4年になりますが、私の主治医は診断名を言わない方。
で、私の様子を聞いたあと、「薬はどうしますか?」と、私がどうしたいかを聞く。
私がいまの様子を話したところで、医者として私がどういう状態にあるかとの見解は示さない。
「少しずつ眠れるようになってきたのでこの薬は2錠じゃなくてもいいです。」
「安定剤は1日2回で済んでて、まだ余りがあるので1日2回の処方でいいです。」
こんな感じで3年。通院を始めて1年くらいして診断名を聞いたら、「適応障害としています。」と言われました。
困ることもなかったし、睡眠剤と安定剤が欲しかったのでこれといった治療やらを希望していたわけではなかったんですが。
さすがに今回だいぶ調子が悪くなって仕事もできないし、休みたいし、「うつ病チェックリスト」とやらをやってみると当てはまりまくるし、
完全にウツに移行しただろうと思っていました。
自分の感情を知るようにしたり、自分がどんな風に考えてどんな風に自分を潰していくか、
けっこう分かってきたので、第一段階クリアしつつあるかなーとは思っていたんだけど、
そうはいっても気持ちが塞いでしんどいことがあるし、買い物がしんどいとか行動が億劫とか、ちょいちょい困ることあるんだけど、
あたし、いったいどういう状態なの?と思って聞いてみました。
「私うつ病ですか?いや、かといって抗うつ剤を飲みたいとかそういうわけじゃないんですけど、急に落ち込んだり泣けてきたり、朝のスタートは悪いし、買い物も困ったりお風呂がどうしても面倒なことがあるし、意欲はないし・・。うーん・・。」
「うつ病の一歩手前だと思っています。買い物とかもですね、困る状態がいつまでも続くことはないということは知っておいてください。」
うつ病、ではないのか・・。
とても複雑な気持ちでした。
うつ病ではない?
ほんとに?
でも抗うつ剤は飲む必要ないとも思うけど、うつ病じゃないの?
そもそも診断名言わないって、どうなの?
他の医者にも診てもらってみてもいいかな‥。でも余計な薬だされてもな‥。
薬については、『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』という、宮島賢也さんの著書で言われていることにとても納得しています。
抗うつ剤を飲むとその時の落ち込みといった症状は抑えられるのだけど、症状が消えることでなぜ落ち込むようなことになるのか、問題の本質が分からなくなってしまうんだそうです。
うつ病の症状は、「あなたはこういう事で苦しんでいるんだよ」という、身体の悲鳴を知ったり考え方や生き方を見つめなおすサインなんだと。
そのサインを消してしまっては、良くなる機会を逃してしまう。
私もまさに何十年もかけて歪んだ思考を持って感情に蓋をする癖をもってしまったので、しんどい時こそ「どうしたの?今しんどいんだね、○○のことに怒ってるんだね。そう思っていいんだよ」と苦しいながらにも自分に言うようにしています。
なので、抗うつ剤で症状を消す、というのは、私にとっては良くない事なんだと思っています。
では、なぜうつ病ではない「一歩手前」で複雑な気持ちになったのか・・。
「うつ病じゃないのに休んでいいのか?」
という思いからの罪悪感でした。
ただ、複雑な気持ちの正体が罪悪感なんだと気づくのが、今までにない早さでした。
会計待ちの間にわかった。
受診を終えて、友人のところに行ってこの話をしたとき、友人はあっさり「良かったじゃん」と言いました。
良かったのか‥。
罪悪感があることも話しました。
じゃあ、働けるの?働きたいの?休みたくないの?と自分で聞くと、「嫌だ。働けない。働きたくない。休みたい。」と強く思う。
医者とか、診断名とか、そういうものがないと「休んでいい」と自分で思えない。
自分を許してあげられない。
そうじゃないはず、「自分が」休みたいのかどうかなんじゃないのか?
やっぱり人に認めてもらわないと自分を許してあげられないんだなー、と、改めて思いました。
人にOK出してもらわずに自分の主観で決めると罪悪感を持ってしまう。
ま、長年それで自分を守ってきたんだから、そうそう簡単にはね、切り替えられないよね。
友人のところで話して、他に他愛もないことでとても楽しく過ごして気持ちよく帰ってきました。
それでも帰ってきて1人になったらまた不安になって「精神科 診断名 言わない」で検索しちゃったんだけど。
都合よく、「精神科では診断名を言わないことが多いです。」というサイトを読んだので、結局それでまた納得、安心できたんですが。
お風呂に入りながら、
「そうよ、誰がなんて言っても、自分が辛くて傷ついて、休みたいって思ってこうして今過ごしてるんだもん。医者の見解も診断名も関係ない。自分がどうしたいかなんだから。それを今自分で決めてやってるんだから。それでいいんだよ。」
ブツブツ言ってたら罪悪感は消えていきました。
今私は、必要な時間を過ごしている。
正しい選択ができて良かったんだ。
それに、うつ病じゃないんだから、もしこれで転職するとなったとき堂々と「体調崩したのでしばらく休養しました。精神的にも参っちゃって。」って言えるじゃん。
今の主治医は、医者として自分はどう思うかという事は言わないけど、むやみに抗うつ剤出す医者より全然マシかも。
正直、理にかなった処方だと思うしな。
休みたいから診断書書いてほしい、ってお願いしたらすぐ書いてくれたし。
まったく、罪悪感てやつは厄介なものです。
それで自分を全否定しちゃうんだから。
受診の日に友人の家に寄ってきたんですが、「明日はSちゃんが来るんだよ。しんどくなければ。無理ならいいしさ。」とのことで、急きょ2日続けて遊びに行くことになりました。
帰ってくるとそれなりに疲れるし、2日続けて大丈夫かな‥、とは思ったんですが、やっぱ友人と話すと楽しいので行きたいと思って。
朝起きたら気だるさはありましたが、「いや、行きたい!」と起きたらサクサク支度できました。
いつもごちそうになるんだから、と、お昼用にナンプラースープを作ろうと急に思い立って具材から調味料から準備を始めて、
その準備もササッとできて、
向かう車の中ではウキウキでした。
「あー、あたし今ウキウキしてるぅ~」
その日もとても楽しく過ごせました。
できたじゃん!というのも良かった。
その日久しぶりに再会したSちゃんにも自分の状況を話して、「いつでも誘ってね、お散歩でもお出かけもできるよ」と言ってくれて、嬉しかったな。
一進一退、それでも少しずつ前に進む!
パステルアートは昨日の夕暮れに描いたものです。