誰かに相談しましょう、ができなかったワケ

キャベツ

2017年09月04日 13:35



9/1の新学期が始まる日に10代の自殺者が最も多いとのことで、
それを取り扱う番組をたくさん見た。
自殺防止の番組は、なぜか惹かれて見てしまう。どうしてかな、と思った時に自分が感じたのは、
死にたくはないけど生きたいという気持ちもないという事でした。
ネガティブな思考とはちょっと違う、冷めたような気持ちです。


「自分が辛くなる前に、しんどくなったら誰かに相談しましょう」
辛くて何か答えが欲しくていろんな本やネットを見て、共通してあるアドバイスです。


じゃあ、できたか?‥と考えた。
日中はスタッフが集まれる時間をとるのがとても難しくてひとつのワークもできずにいた。それなのに自分のために集まってもらうのは気が引ける。
個々のスタッフとゆっくり話す時間ももてなかった。
自分自身も何かあればすぐに呼ばれて、終われば電話が鳴って、休憩も取れないことも多かったので、
人に話す時間をとるなら休みたいというのも本音。そんな日々が続くうちにどんどん卑屈になっていく。
パートさんや時短スタッフを時間に帰して、残った仕事は引き受けるのが正職員である自分たちの役割という暗黙の認識があって、
毎日「今日はいつ終わるんだろう」と先が見えずに誰にも頼れないような閉塞感がとても苦痛で緊張感も常にあったけど、
それを辛いと言うことは当時の自分には怖くてできなかった。

それを言うことは孤立することにもつながるような気がして怖かった。
自分以外のスタッフがパートと時短スタッフという中で、「私も早く帰る日が欲しいです」と言ってもし孤立したら、
それでは仕事ができない。仕事に影響でたら関係ない大事な人たちに迷惑がかかることになる。
こうなってみて自分と向き合う時間ができて、人に頼むこと、弱音を吐くこと、辛いと言うことが必要だと知った。
渦中にいる時はそんなこと知る余裕もなかった。
きっと、仕事が辛くて生きるか死ぬかのところに立っている人たちもそうだと思う。
人の話しを聞くことも、本で学ぶことも、そんな余裕があればもっと建設的な解決策を考えられている。
そもそも自己肯定感がまったくなく、ダメ出しをすることで自分を高めていくんだということを信じていた私には、絶対に無理だった。
弱音を吐くこと、人に助けを求めるのは弱い人間でそれをしたら「できないヤツ」のレッテルが貼られて認めてもらえなくなる恐怖、正職員である役割をまっとうすること、それに文句を言わないことが正義だと思っていた自分、同時に正職員であれば残って仕事を片づけるのが当然でそれに疑問をもつことが反しているという管理部も含めた暗黙の認識、
それが正解だと思い込んでいて、誰もそうじゃないと言えない中で、自分が感じることがまちがいだと思い、自分の感情を尊重することなんて思いつくこともなく、ただ毎日を必死で、早く楽になりたいという一心で、
結果潰れる。
なってみないと分からない。

でも今は、「辛い時は誰かに相談する、助けを求める」ことの必要さや有効さをよく理解できますし、できるようになりたいと思います。


じゃあ、知った今、同じ職場に戻れるか?
無理だ。
自分の思いだけではどうにもならない環境的な問題がある。
自分を変えるしかない。
それは昔からわかっていた。
でもできなかった。気力でのりきれるだけのパワーがあった。理不尽だと思いながら、それを自己否定しながら、怒りがどんどん膨らんでその力で周囲にあてつけるように必死で働いていた。
とても疲れた。そして、頑張った結果が(現状では)何もない。
休んだ直後から、仕事をしていた実感も未練も何もなくなった。
専門職なのに、専門を生かした仕事をしていた記憶が何もない。
専門以外の、現場のマネージメント的な仕事がいかに多かったかを思い知らされる。

勉強して何度も経験して身に付けた知識と技術で、仕事そのものを楽しむことができなかった。

時間がかかっても、ネガティブな感情しかない状況で必死にやっていた、今は全く実感がないあの働いていた時期を、「よく頑張ったね、あそこまでできるのはすごいね」と、自分でちゃんと認めてあげられるようになりたいと思う。
一生懸命やっていたあの時の自分も否定したくないしな。



わかった今、どうしようか


絵を学ぶ、心理学を学ぶ、カレーの研究をしたい、カレー屋になりたい


生きてて楽しい、嬉しい、これからも生きたいと思えることはなんだろう




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自己否定が辛くてどうしようもないけど、どうして辛いかわからずにいたとき、
どうしても苦しくてLINEで聞いてほしいと、吐き出そうとした。
そしたら話しを聞きに来てくれた。
正直に話した。

「そう思っちゃうんだね」

と、共感してくれたであろうその言葉に引っかかった。
でも何も言えなかった。
共感して言った言葉だと分かっていたからそこには触れなかったけど、胸のつかえはとれなくて、
話しをきいてもらったのに何もすっきりしなかった。
それは、自己否定が強い私にとっては、
「そう思っちゃうんだね」=「そんな風に思っちゃうんだね」=そう思う事はまちがいだ
反復されたことで自己否定をして、苦しくなったんだと後にわかった。

だけど、信頼していたその人は過去に、
弱音を吐かずなんでも自分で解決して、職場の問題にも向き合う私に、
「辛くても自分で話そうと思わないと話さないタイプでしょ?だから変だなと思っても、私もあえて聞かないようにしてるの」と、さも私の事を理解しているかのように言った。
私を肯定する言葉だったんだろうが、忘れずにいるということは心にひっかかったということ。
辛くても反応が怖くて言えない、「どうかしたの?」と聞いてきてほしいのが、本当の私だった。
でも、周りに心配させない態度をとっていたのも実際の私。
この言葉で「聞いてきてはもらえない」と、心にカギがかかり、自分で弱音を吐くことはさらに難しくなった。
全部無意識だったけど、心はちゃんとわかってて、ちゃんとざわついて、
気づかなかったのは私の脳。
そう言われたことが心に残っていたから、「そう思っちゃうんだね」の言葉を否定的に感じたんだと思う。


~学んだこと~

辛い時は辛い顔をするなど、その時の自然な表情をする 無理に笑わない
できるなら、ちゃんと辛いことを言葉で伝える
自分の感情をちゃんと言葉で伝えられるように練習していく
辛いけど大丈夫です、こんなのへっちゃらです、という、周りに心配させないような、それで自分を認めてもらおうなどというやせ我慢はしない
やせ我慢をした結果、私という人間は「話したいときには自分から話してくる、そうじゃないときは話したくない時だから言ってくるまでほっとこう」という、自分に反した認識をもたれた
心がざわついたら、なぜざわついたのか、感情のサインを無視しない
その時修正できなくても、気づいたら誤った認識をもたれたままにしないように相手に伝える


がんばろう、自分

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